亀ヶ崎城(酒田市)概要: 亀ヶ崎城は元々東禅寺城と呼ばれ文明10年(1478)に大宝寺氏が築城しました。酒田の地は最上川や日本海に面する交通の要所で大宝寺氏も一族である東禅寺氏を城主にするなど重要視していました。しかし、大宝寺氏は領内で軋轢が生じ東禅寺氏は本来は敵である最上氏と手を結び対立し一旦は東禅寺氏が庄内地方を掌握します。その後両氏の対立が激化し、大宝寺氏が養子を上杉家の一族である本荘氏から迎えいれるなど後援を頼み、伊達氏と協力し最上氏を背後から牽制させるなど策を施し、再び領地を取り返します。その後、豊臣秀吉の奥州仕置きにより庄内地方は上杉領と決まり、大宝寺氏は出羽守の地位を守りました。
慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いでは西軍の上杉軍が最上領へ侵攻し最上氏の本城である山形城まで近接しますが、本戦である関が原での石田三成の敗北を聞き、領内に軍を引き揚げます。最上氏はその隙をつき庄内領へ侵攻し東禅寺城を激戦の末落城させ領内の支配権を確立しました。その時、東禅寺城近くの浜に大亀が打ち上げられたのを吉兆とし亀ヶ崎城と改名しています。その後数十年は最上氏支配が続きますが、最上義光が死去すると最上家は家督相続で2分する御家騒動が起き、元和8年(1622)に改易となります。
庄内地方は徳川家の重臣で譜代大名である酒井氏が配され、鶴ヶ岡城(鶴岡市)に本城を置き、一国一城令の中、亀ヶ崎城は例外として支城として認められ親族の松平氏が城代として入ります。亀ヶ崎城は最上川と新井田川を外掘に見立てた平城で、周囲を高い土塁で囲みましたが、本格的な石垣や天守閣などの高層な建物は築きませんでした。明治維新後は廃城となり、本丸跡は酒井東高校の敷地となり、その他は宅地化した為、一部に土塁の遺構を残すだけになりました。近くにある円通寺の山門は亀ヶ崎城の搦手門を移築したものだと言われています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-酒田東高等学校長
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