酒田市(歴史)概要: 酒田市の歴史は古く平安時代には出羽国府(城輪柵)が置かれたとされ、当時の出羽国の政治的中心で中央との繋がりも強かったと考えられています。延喜式神名帳に記される式内社も山形県内では酒田市を含めた庄内地方に集中し古代の街道や駅などが設置され文化的に高い地域でした。
中世は庄内地方は武藤氏が支配し酒田市では一族である東禅寺氏が東禅寺城(後の亀ヶ崎城)に入り周辺を統治していました。
しかし、戦国末期になると武藤氏の戦局拡大の失政などもあり家臣団が次々に離反し東禅寺氏は急先鋒となりそれらをまとめ上げ最上氏の後ろ盾にする事で一時飽海郡一帯を掌握します。その後の酒田市は混沌を極め、最上氏と上杉氏が交互に支配し一揆の勃発など世情が不安定な状態が続きます。
元和8年(1622)に最上家が改易となり酒井家が13万8千石で鶴ヶ岡城に入り庄内藩を立藩すると、1国1城の中酒田市にある亀ヶ崎城だけは例外的に認められ、庄内藩は鶴岡と酒田の両輪で安定した政治が行なわれる事になります。
特に酒田市には古くから奥州藤原氏の家臣36人の子孫と呼ばれる「酒田三十六人衆」が自治組織を作り上げ、中には鐙屋や本間家といった日本有数の豪商が育っていきました。
寛文12年(1672)に河村瑞賢が西回り航路を整備すると酒田港は北前船の寄港地になり、最上川舟運の発展に伴って内陸部の米や紅花や青砥といった商品作物も一手に取り扱うようになり飛躍的に繁栄します。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に属し結果的には敗北しますが主戦場が秋田県側で行なわれた為、酒田市では大きな損害を受けず明治時代を迎えています。現在の酒田市には豪商の町屋や料亭、洋風建築、史跡など数多く残り繁栄した当時の様子を今に伝えてくれます。
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