鶴岡市(歴史)概要: 鶴岡市は中世、武藤氏が築いた城下町でした。しかし、戦国時代に入ると武藤氏は鶴岡市を含む飽海郡、田川郡一帯を支配しますが近世大名としての磐石な基盤を築く事が出来ず、家臣達が離合集散を繰り返した為、最上氏、上杉氏の侵攻を受けます。
武藤氏は当初、大宝寺城(鶴ヶ岡城)を居城にしていましたが、より堅固の城郭の築城が必須となり大山の地を選び、上杉家の家臣である本庄氏に従属します。
関ヶ原の戦い後は最上氏が支配し鶴ヶ岡城の改築や城下町の建設を行ないますが元和8年(1622)にお家騒動で改易、その後は酒井氏が13万8千石(後14万石、実石は20万石以上とされます。)で入封し庄内藩を立藩しました。
酒井氏は現在の鶴岡市の基礎となる町づくりを行い江戸時代中期までは安定した藩政を行ってきましたが、5代忠寄が老中となり日光東照宮(栃木県日光市)の修繕を負かせられるなど出費がかさみ財政が逼迫します。
庄内藩は酒田の本間光丘に藩財政立て直しを委任することで改革を断行し再び藩政が安定しますが、天保11年(1840)庄内藩の酒井氏を越後長岡へ、長岡藩の牧野氏を川越へ、川越藩の松平氏を庄内へという三方領地替えが持ち上がります。
その時、庄内藩の領民が江戸に出向き幕府に領地替え取り下げを直訴するという前代未聞の事件が起こり、幕府は命令を取り下げ領民達を賞賛したと伝えられています。
戊辰戦争の際は白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に名を連ね、最期まで政府軍と戦いましたが敗北し、鶴ヶ岡城は廃城となり施設等は破棄されました。
現在の鶴岡市には古い町並みはあまり見られませんが、酒井氏縁の社寺仏閣や、藩校である致道館、旧西田川郡役所、旧鶴岡警察署、鶴岡カトリック教会天主堂、大宝館などの洋風建築が見られます。
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