松ヶ岡開墾場(出羽三山)概要: 松ヶ岡開墾場は山形県鶴岡市羽黒町松ケ岡に位置しています。明治維新後、庄内藩は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加し中心的な立場として新政府軍と敵対し敗戦したことで17万石から12万石と石高を減らされ、困窮状態にあった為、藩士3000人が松ヶ岡開墾事業を遂行しました。
明治5年(1872)から始まった開墾は明治7(1874)までに311ヘクタールの造成を行うと明治10年(1877)までに大蚕室10棟を建設して養蚕事業を開始、その後、製糸工場、絹織物工場と次々と事業を広げていきました。
名称は明治5年(1872)に旧藩主酒井忠篤が開墾に従事する旧藩士を激励に当地を訪れた際、木札に「松ヶ岡」と揮毫し経塚丘上に立て事に因み松ヶ岡開墾場と名付けられてました。
大蚕室の棟梁は高橋兼吉(鶴岡出身の宮大工、庄内藩では普請係を勤め、廃藩後は特に洋風建築の技術を学び西田川郡役所や鶴岡警察署を建築、社寺建築としては善宝寺五重塔や荘内神社などを手掛けています。)で木造3階建ての寄棟、瓦葺き、平入りで上州島村式と呼ぶそうです。
現在は5棟の大蚕室が残り(往時は10棟の大蚕室、1棟の茶製場が建設された)、松ヶ岡開墾記念館や食事処、用具収蔵庫、庄内映画村資料館などに再利用され観光地としても整備されています。
又、敷地内には松ヶ岡本陣(庄内藩主酒井家の藤島宿での御茶屋本陣を移築し松ヶ岡開墾場の集会所兼事務所として利用)や新徴屋敷(庄内藩が江戸市中警備役の際、採用した「新徴組」が松ヶ岡開墾場で与えられた屋敷)など当時の施設の一部が移築保存され、周囲一帯が平成元年(1989)に国指定史跡に指定されています。
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