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藤島城(鶴岡市)概要: 藤島城は山形県鶴岡市藤島古楯跡に位置する中世の城郭です。
藤島城の築城は和銅年間(708〜715年)といわれ、当時は出羽国府に関係した城だったと推定されています。
鎌倉時代になると周辺を支配した土佐林氏が城主だったと推定され、建久4年(1193)には、近隣に鎮座している六所神社に社殿の修復料として土佐林右京守次正が130貫文を寄進したと伝えられています。
元弘3年(1333)に出羽守に就任した葉室光顕が藤島城にあったとされますが、光顕は秋田城務も兼ねていた事から、藤島城で本格的な政務を執った可能性は低く、秋田城に赴任するまでの、短期間程度なのかも知れません。
興国3年(1342)と推定される8月24日付の中院具信書状によると、昨年、結城親朝から藤島城の中院具信に送った御茶が鮭延辺で略奪され、御状のみが届けられたと記されている事から、当時は中院具信が城主だった事が窺えます。
康永2年(1343)と推定される2月21日付の藤原公房書状によると、「出羽国大泉庄藤嶋城」と記されており、藤島城が当地方の南朝方の拠点として機能し、北朝方が警戒していた事が窺えます。
康永2年(1343)と推定される12月18日付の藤原公房書状によると、藤島城を拠点とする南朝勢力が越後国の北朝方の大河将長の拠点に侵攻しています。
貞和4年/正平3年(1348)に南朝方の有力武将だった北畠顕信が守備する立谷沢城は、北朝方の大軍に攻められ、善戦虚しく落城、顕信は藤島城まで撤退しています。
観応2年/正平6年(1351)には北畠顕信が守永親王を奉じて旗揚げをし、一時、多賀城を奪還したものの、吉良貞家に敗れ宇津峰城に本拠地を遷しています。
文和2年/正平8年(1353)に宇津峰城が吉良方に急襲され落城、顕信は再び藤島城に入ったと見られ、延文3年/正平13年(1358)には鳥海山大物忌神社に南朝復興と出羽国静謐を祈願しています。
その後、再び土佐林氏が城主となり「大泉庄三権現縁記」によると文安2年(1445)の条に「羽黒御本社修造、当国主土佐林和泉守氏光殿御建立」と記されている事から、少なくともこれ以前に藤島城主に復権したと推定されています。
土佐林氏は一大勢力を保持した羽黒山を後ろ盾に勢力を拡張しましたが、同じく台頭してきた大宝寺氏と激しく対立し、文明9年(1477)には大宝寺政氏の侵攻を受け、藤島城は落城しています。
その後の土佐林氏は大宝寺氏の被官になったと思われ、羽黒山の別当職も大宝寺氏方に遷っています。
天文元年(1532)には、大宝寺氏と対立し砂越城の城主である砂越氏から攻められ、藤島城は落城、土佐林氏は当地を一時離れたと推定されています。
その後、土佐林氏は藤島城主に復権したようで、土佐林禅棟の代には大宝寺氏の家中で筆頭格となり、天文10年(1541)に大宝寺晴時が死去すると、大宝寺義増の家督就任に尽力しています。
一方、禅棟は幕府や越後上杉家、最上家との外交役を担った事で、周辺の諸大名や国人領主からも信任を得て次第に独立性を高めていったようです。
永禄11年(1568)に大宝寺義増の同盟者だった本庄繁長が越後上杉家に対して反乱を起こし粛清された為、大宝寺家と上杉家との関係修復に尽力しています。
永禄12年(1569)に義増が隠居した際、長男だった大宝寺義氏は禅棟を後ろ盾として家督を継いだものの、元亀元年(1570)には対立が顕著となっています。
同年に上杉謙信の調停を受けて和睦し、禅棟は義氏の依る尾浦城に伺候しましたが、讒言から身の危険を感じた為、尾浦城を退去し、横山城に立て籠もっています。
元亀2年(1571)に横山城は義氏に攻められ落城、禅棟も討死し土佐林氏は滅亡しています。
藤島城には義氏の甥である大宝寺兵庫頭義興が配され、天正7年(1579)には羽黒山別当職も義興が継いでいます。
天正11年(1583)、東禅寺城の城主東禅寺氏が最上義光と通じ、尾浦城に侵攻、義氏を自刃に追い込むと、代わって義興が大宝寺家の家督を継いでいます。
藤島城には義興の家臣である小国彦次郎が配され、天正14年(1586)には警固の強化を命じています。
天正18年(1590)に施行された奥州仕置きと上杉家によって行われた検地に反発した、金右馬允などの土豪や地侍は天正19年(1591)に農民達を扇動し藤島一揆が勃発しています。
一揆勢は藤島城に籠城、上杉軍と交戦し、直江山城守兼続でも城を落とせなかったと言われています。
兼続は起請文を発し一揆側と和睦を成立させましたが、藤島城を開城し一揆勢が城から離れると大軍を率いて再び侵攻し、老若男女悉く討ち取られたと伝えられています。
大宝寺義勝は藤島一揆の不手際から改易となり、信濃国川中島に知行地を与えられると京都に寓居する事となっています。
義勝改易に伴い、庄内地方は越後上杉領となり、藤島城には上杉家の家臣である栗田刑部、慶長3年(1598)には木戸玄斎、慶長5年(1600)には安倍氏重が配されています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の合戦後は東軍に与した最上家領となり、慶長8年(1603)には最上家の家臣である新関因幡守久正が7千石で配されますが、元和元年(1615)に一国一城令が発令されると藤島城は廃城となっています。
藤島城は平城ですが高い土塁を築き、藤島川を外堀とし、郭、出城、支城を兼務した楯と呼ばれる前衛基地が多数藤島城を取り囲んでいました。
現在は本丸跡に八幡神社が鎮座し、それを取り囲むように土塁の遺構が見られ、正面には水掘の一部も残り、貴重な事から昭和51年(1976)に鶴岡市(旧藤島町)指定史跡に指定されています。
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