鶴岡市藤島町(歴史)概要: 藤島町の歴史は古く、平形付近に出羽国府が置かれたとされ、当時の出羽国の中心的な地域でした。
隣接する藤島城(旧藤島町文化財史跡)の築城年も和銅年間(708〜715年)と推定され、内陸部と繋ぐ六十里越街道が開かれるなど街道をとおして中央からも多くの人や物資、文化などの往来があったと考えられています。
鎌倉時代になると、豪族として力をつけた土佐氏が旧藤島町一帯を治め、長期に渡り支配しますが大名にまでは成長する事が出来ず、戦国時代には武藤氏が庄内一円を席巻します。
しかし、武藤氏は最上氏、上杉氏を始め秋田氏や小野寺氏までも対立することで戦線が伸びきり家臣の裏切りもあり弱体化していきます。武藤氏は上杉氏に従属することでなんとか戦局を維持しますが豊臣秀吉の奥州仕置きでの検地の際、一揆が発生し、その罪で領土を追われる事となります。
その後、藤島町を含む庄内地方は上杉氏が支配しますが、関ヶ原の戦いで西軍に組した為、米沢に減封され、藤島城には最上氏の家臣新関氏が入ります。その最上氏もお家騒動により改易され、酒井氏が鶴岡城に入り庄内藩を立藩、藤島城は1国1城令もあり廃城となります。
江戸時代の藤島町は酒井氏の参勤交代の道である江戸街道の宿場町として発展し出羽三山の参拝者にも大いに利用され、明治時代になっても周辺地域の中心的な役割を担い東田川郡役所や東田川郡会議事堂などが建てられました。
又、藤島町は数多くの獅子踊りが残っている地域としても知られ特にの両所神社御獅子舞は、旧藤島町指定無形文化財に指定されています。
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