酒田市松山町(歴史)概要: 至徳元年(1384)に陸奥国から戦に敗れた伊勢守佐藤正信公が中山館(後の松山城)を築き、月庵良禅師と供に総光寺を創建しました。
戦国時代は松山町を本拠とする大きな大名は存在せず武藤氏や東禅寺氏の影響化にあったと思われます。その後、庄内地方は最上家と上杉家が交互に支配する不安定な状態となり各地で一揆が多発しています。
元和8年(1622)に最上家が改易となり酒井家が13万8千石で鶴ヶ岡城に入り庄内藩を立藩すると、正保4年(1647)に初代庄内藩主となった酒井忠勝の3男忠恒が2万石で中山館に入り松山藩を立藩します。
3代松山藩主忠休は幕閣に入り若年寄の地位まで登りつめた為、5千石を加増され、さらに城持大名へと格上げとなり松山城が築城されます。しかし、松山藩は庄内藩の支藩のような存在だった為、藩主を本家から迎えるなど不遇な待遇を受け、幕閣の参画や松山城の築城等で藩費が重なり家臣内では不穏な空気となりました。
戊辰戦争では松山藩は庄内藩と共に奥羽越列藩同盟に加担した為、隣接する矢島藩、秋田藩などに結果的に敗北を喫し、降伏後に松山城は大手門を残し廃城となりました。
|