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城輪柵(出羽国府)概要: 和銅5年(712)9月23日に越後国の出羽郡が出羽国に昇格、さらに10月1日に陸奥国の置賜郡と最上郡が出羽国に組み込まれ、出羽国の体裁が整えられました。
当初の出羽国府の位置は判りませんが(藤島城付近とも云われています)、天平5年(733)頃に雄勝郡が設置されると、秋田村高清水岡に出羽柵が遷された際、出羽国府も出羽柵に移転したと推定されています。
出羽柵は秋田城と改められ、対、越蝦夷との最前線として重きを成しますが、蝦夷の抵抗が余りにも激しくなった事から、国府の再移転を余儀なくされ、最終的に8世紀後期から末期頃に城輪柵に移転したと推定されています。
「日本三大実録」の仁和3年(887)5月20日条に「国府在 出羽郡井口地」と記されており、この井口地が当地の事と推定されています。
「日本三大実録」には嘉承3年(850)に発生した出羽地震の事も記載されており、津波と思われる海水が国府から六里の所まで追って、大川も崩壊し、堤防にも甚大な被害があった事が記されています。
出羽地震については「日本文禄天皇実録」嘉承3年(850)10月16日条にも大地震で山谷に亀裂が生じ、多くの人が圧死した事が記されています。
さらに、同、11月23日条には城柵が傾き、集落は激しい揺れで倒壊したと、詳しく地震の被害の様子が記され税の免除や救援を願い出ています。
地震の震源地は最上川河口から北西沖合約5kmの海底で、地震の規模はマグニチュードは7.0と推定され、高いところだと20m以上の津波が発生した可能性があるとも指摘されています。
これにより、国府の移転が検討され、地震の被害が少なく、津波が及ばない内陸部の最上郡大山郷保宝士野の地が候補地に挙がりました。
しかし、最上郡大山郷は出羽国内を統治するには余りにも辺境だった事から、現在の国府の近くの高台に移転する事に決まりました。
城輪柵から東方3km、標高約60mに位置する八森遺跡が国府の移転先と比定され、八森遺跡の周囲には出羽国分寺跡と推定されている堂の前遺跡や古代遺跡が点在しています。
城輪柵の発掘年は昭和6年(1931)ですが、近くには城輪神社が鎮座し、「城輪」、「木の内」、「本楯」、「新田目」、「政所」、「門田」などの地名から、古くから古代の城があると推測されていました。
江戸時代中期に進藤重記が編纂した「出羽風土記略紀」には「古此辺に官人の居城ありて、城外に祭れる神を城輪と称し、城地の内を城の内と称せしを後世城を木に改けるにや」と記載されています。
その後も律令官人の居城、柵戸の遺跡、国分寺、出羽柵、国府など、様々な説を唱える人がいました。
城輪柵の総面積は52万uあり一辺が約720m四方の方形で、中央に115mの築地塀で囲まれた政庁がありました。
政庁には正殿と後殿の間には目隠塀が設けられ、東西には脇殿、附属舎などの施設、南門、東門、西門、北門の4つの大型八脚門が建てられました。
南門が城輪柵の正門にあたり、外側に東西両方に建物跡が発見され、門から真直ぐに政庁に向かう幅9m程の南大路が伸びていました。
西門から直線上で外郭西門跡が見つかり、その他にも外郭内部には井戸や20棟を越える住居跡、外郭には櫓跡などが発見されています。
柵内からは蓮華文の巴瓦や唐草文瓦、円柱数本なども出土し、近隣にある泉森窯跡からは、城輪柵の為に制作したと思われる、単弁十弁蓮華文軒丸瓦、丸瓦、平瓦、須恵器などが出土しています。
窯跡の大概の時期は9世紀前半と判明している事から、城輪柵もその頃に本格的な整備が行われた可能性があります。
城輪柵は6期にわたり、増改築が行われ概ね平安時代初期から、国府の機能が失われた後の後期まで数百年の間機能していたと推定されています。
現在は政庁南門、東門、築地塀、目隠塀などが復元され歴史公園として整備されています。
城輪柵跡は貴重な事から昭和7年(1932)に国指定史跡に指定されています。
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