庄内町(歴史)概要: 庄内町は古くは佐藤氏や最上家家臣北楯大学利長など治めた地域で、特に利長は周辺の新田開発に尽力を尽くした人として知られています。庄内町の最上川左岸地域は、一見平地に見えますが左右に流れる最上川と京田川よりも標高が高く、耕作地としては適地ではありませんでした。
そこで利長は慶長17年(1612)に庄内町清川にある立谷沢川からの引水した「北楯大堰」を築き約5000haにも及ぶ新田を開発しました。この開発は新たに88の村々が出来るなど現在の庄内町の祖ともなる行為とされ、利長が死去した後は神格化され北館神社(庄内町狩川)として祀られています。
又、庄内町は最上川沿いに大きく広がる町で古来から交通の要所と捉えられ、江戸時代に入ると清川は庄内藩と新庄藩の藩境である事から関所が置かれ、人物改めや荷物改めなど厳しく管理されました。
特に清川から古口(新庄藩)までは陸路がなく多くの物資や旅人はここで乗り換えをした為、経済的にも発達し舟形街道の宿場町として酒井氏の本陣も設けられました。
狩川は舟形街道と江戸街道の交差する交通の要所として発展し、出羽三山詣での入口としてここから手向宿に向う参拝者や修験者で賑ったと言われています。
松尾芭蕉も「奥の細道」行脚の際、清川で下船し狩川を通り出羽三山に向っています。戊辰戦争では幕末の要人だった清河八郎が祭られる清河神社(庄内町清川)周辺が激戦区となり双方に大きな犠牲者がでています。
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