鳥海山大物忌神社(吹浦口之宮)概要: 大物忌神社の創建は由緒によれば景行25年(275)に鳥海山の山頂に鎮座したと伝えられ、出羽国一宮として古来から信仰を集めていました。
伝承によると平安時代初期の弘仁14年(823)、慈覚大師円仁が別当寺院である神宮寺を開山したとも、貞観6年(864)に鳥海山が五色の光で包まれた際、登拝しようとしましたものの赤鬼と青鬼が行く手を阻んだ為、法術を施したところ鳩般恭王(両所大菩薩)となり円仁に従ったとも伝えられています。
延喜式の式内社でもあり、歴代天皇や、支配階級にも崇敬され、前九年合戦、後三年合戦時には源義家が戦勝祈願し、中世は北畠氏、近世に入ると酒井氏が庇護して社領の安堵や社殿の再建をしています。
中世以降は神仏習合し、鳥海山修験吹浦口の拠点として別当である神宮寺が学頭として25坊を擁する一大勢力となりました。出羽三山信仰である羽黒山修験と近接し、相殿として月山神社の分霊が勧請されました。
同じ遊佐町にある蕨岡の大物忌神社とは関係が悪く度々抗争が起こっており明暦元年(1655)には幕府の裁定により鳥海山山頂の本社の開発が蕨岡修験によって行われる事が明確になり、その後に起こった一宮抗争も幕府の裁定で鳥海山山頂を本社とし一宮とする事に決めました。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当である神宮時が廃寺となり社号も鳥海山大権現から大物忌神社と改名し、明治4年(1871)に当社が国幣中社に指定されました。
しかし、国幣中社には蕨岡の大物忌神社が指定されなかった事で再びいざこざが起こり、前例にならい、蕨岡、吹浦の両神社を口之宮(里宮)とし山頂の本社を国幣中社とし3社あわせて鳥海山大物忌神社と改名しました。
蕨岡とは異なり吹浦の社殿は拝殿の背後に大物忌神と月山神の両神を祀る本殿が2棟並んで建っていて当時は両所宮とも称されました。
鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮本殿は正徳元年(1711)に庄内藩4代藩主酒井忠真が造営されたもので一間社流造、銅板葺、正面一間向拝、高欄、浜縁、脇障子付、建築面積16u。
摂社月山神社本殿は正徳元年(1711)に同じく酒井忠真が造営されたもので一間社流造、銅板葺、正面一間向拝、高欄、浜縁、脇障子付、建築面積16u。
拝殿は明治18年(1885)に造営されたもので木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行5間、梁間3間、正面一間向拝付き、外壁は真壁造板張、建築面積116u。
宮下拝殿は明治12年(1879)に造営されたもので、入母屋、銅板葺き、平入、桁行7間、梁間5間、正面三間向拝付き、建築面積220u。
多くの社殿が「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成24年(2012)に国登録有形文化財に登録されています。又、鳥海山大物忌神社(吹浦口之宮)は大変貴重な事から境内一円が国指定史跡に指定されています。
鳥海山大物忌神社(吹浦口之宮)の文化財
・ 北畠顕信寄進状−国指定重要文化財
・ 鎌倉幕府奉行人連署−国指定重要文化財
・ 花笠舞−山形県指定無形民俗文化財
・ 大物忌神社本殿−国登録有形文化財
・ 摂社月山神社本殿−国登録有形文化財
・ 中門及び廻廊−国登録有形文化財
・ 後神門及び玉垣−国登録有形文化財
・ 拝殿及び登廊−国登録有形文化財
・ 下拝殿−国登録有形文化財
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