【 概 要 】−酒井忠真は寛文11年(1671)、庄内藩3代藩主酒井忠義と諏訪姫(松平輝綱の娘)との子供として生まれました。天和2年(1682)忠義の死去に伴い酒井家の家督を継ぎ、庄内藩4代藩主に就任しています。元禄6年(1693)に奥詰、同年に側用人と兼務となりましたが、預かった元赤石藩主本多政利が暴力事件を起こした事から、忠真も連座し解任されています(多くの家臣も処罰されています)。元禄7年(1694)に奥詰が再任となり、最終的には従四位下、左衛門尉、侍従となっています。
宝永元年(1704)には鳥海山の山頂を巡り隣接する矢島藩(秋田県由利本荘市矢島町)と境界線争いとなり、幕府の裁定により勝利しています。矢島藩は1万石の外様大名だった為、有力譜代大名だった酒井忠真が圧力をかけたとも云われ、現在でも明らかに不公平と思われる境界線が踏襲されています。宝永4年(1707)には鶴ヶ岡城に女中御屋敷(後の御隠殿)を造営、同年、富士山の噴火により麓の村々が甚大な被害を受けた事から東海道の藤枝宿(静岡県藤枝市)付近の普及の普請の手伝いを幕府から命じられています。忠真は温泉好きだったようで領内にある温海温泉を記録があるだけでも6回訪れ湯治と磯釣りを楽しみました。享保16年(1731)死去、享年61歳。
酒井忠真は社寺の保護も行い、貞享2年(1685)には山王日枝神社の境内社である複鎮霊社を創建、元禄11年(1698)には山王日枝神社の社殿を造営、享保13年(1728)には六所神社(山形県鶴岡市上藤島六所畑)の社殿造替の際、後田林の大松木が10本奉納、元禄3年(1690)に羽黒山東照宮(山形県鶴岡市:出羽三山)の社殿を造営、同年には庇護してる春日神社の黒川能の式・3番叟と能7番を堪能、宝永2年(1705)には八幡神社 (山形県酒田市市条)の拝殿を造営しています。
宝永4年(1707)には気比神社(山形県鶴岡市)の社殿を造営、宝永5年(1708)に鶴ヶ岡城二の丸東北隅に城の鬼門鎮守として御城稲荷神社を創建、宝永8年(1711)には火災で焼失した鳥海山大物忌神社吹浦口之宮(山形県遊佐町)の本殿(国登録有形文化財)を再建、享保4年(1719)には田川八幡神社の社殿を修復、享保10年(1725)には飛鳥神社(山形県酒田市)の仁王尊躯衣替え際に金子を奉納しています。
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