駒姫:概要

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概要・歴史・観光・見所
駒姫(専称寺)

【 概 要 】−駒姫は天正7年(1581)、山形城(山形県山形市)の城主最上義光と正室である大崎夫人(大崎家11代当主・大崎義直の娘)の2女として生れました。幼少の頃から両親に溺愛され、容姿の美しさかえあ東国一の美少女と広く知られた存在だったとされます。天正19年(1591)、豊臣秀吉による奥州仕置に不服だった南部家一族の九戸政実が抗議の意味を込めて反乱を起こし、南部家では対象不能となり豊臣家の奥州仕置軍に援軍を要請し、当時の秀吉の跡継ぎ第一候補である豊臣秀次も従軍しました。

その凱旋の際、秀次は山形城に立ち寄り義光は慰労を労う為に駒姫に秀次の接待をし、駒姫を見初めたとされます。しかし、秀次が山形城に立ち寄ったとの資料が無く、福島県福島市に境内を構える常光寺では秀次が九戸の乱の勝利の宴を開いたとの伝承が残され、こちらが正しければ太平洋側の経路を利用し山形城には立ち寄らなかった事になります。何れにしても、秀次から義光に対して駒姫を側室にするように要請があり、義光は断り切れず、せめて15歳になるまで親元で育てたいと答えるのが精一杯だったようです。

駒姫が15歳になった文禄4年(1595)、駒姫は秀次に輿入れする為に上洛し、京都の最上屋敷に滞在している最中に、世に言う「秀次事件」が発生、秀次は自害し関係者も処罰の対象となりました。駒姫は山形城の逸話が本当であれば1回きり、それが事実でなければ1度も秀次と顔を合わさず処分される事となり、最上義光も懸命に助命嘆願を各方面に働きかけたとされます。さずがに、殆ど顔を合わせた事が無く、輿入れ前の15歳の少女が処刑される事はあり得ないと多くの人々が賛同し、豊臣秀吉も処罰の軽減を指示しましたが、それが間に合わず駒姫は三条河原で処刑されました。享年15歳、戒名は「諦雲院殿誓聴大姉」又は「諦雲院誓聴日東大姉」、「妙法院華萼蓮心大姉」。辞世の句「罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひて 罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」。

菩提も最上家に還される事が無く他の処分者と共に安易な穴にただ投げ込まれるだけで、その上に「畜生塚」の石碑が建立されたとされます。さらに、悲観にくれた大崎夫人も命を絶った事から義光は山形城の城下町に専称寺(山形市)に遷し、2人の菩提を篤く弔ったそうです。専称寺は山形城の城下町では最大級の境内を持ち、周囲には専称寺の支院が建ち並ぶ寺町(専称寺町)が形成され、山形城の防衛の拠点にもなりました。又、専称寺の庫裏の一室が山形城の駒姫の居室を遷したとの伝承が残され、専称寺境内には駒姫の遺髪を埋めた供養塔が建立されています。

専称寺:写真
駒姫と縁がある専称寺 駒姫と縁がある専称寺 駒姫と縁がある専称寺 駒姫と縁がある専称寺
山形城:写真
駒姫と縁がある山形城の二ノ丸東大手門 駒姫と縁がある山形城の水掘 駒姫と縁がある山形城の東大手門 駒姫と縁がある山形城の本丸石垣・空掘



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