山形城(寺町)・町並み

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山形城・寺町・町並み
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【山形城】山形城は南北朝時代に北朝方の武将として当地に配された斯波兼頼によって築かれた平城で、後裔は最上氏を称し長く当地を支配し、山形城も随時整備拡張されました。戦国時代になると、元々最上家の一族として要所に配された諸氏は国人領主として独立し、宗家である最上家と対立関係となり、さらに置賜地方の伊達家の軋轢を受け、最上家は弱体化を余儀なくされます。最上11代義光はこれらの国人領主を従属させ最上地方を統一すると庄内地方や雄勝地方(秋田県)にも進出し出羽国を代表する戦国大名に成長し、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きでは24万石が安堵されました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には義光は徳川家康が主導する東軍に属し、西軍方の上杉家の猛攻にさらされ、敗北寸前まで追い込まれましたが、山形城の支城である長谷堂城上山城が何とか持ちこたえ、その間に関ヶ原では東軍が勝利した事を受け、上杉軍が本領の会津若松城(福島県会津若松市)に退却しました。これにより、本領安堵の他、庄内地方と雄勝地方の支配も認められ57万石の大身として山形藩を立藩し、山形城はその本城としてさらなる拡張整備が行われ、平城としては日本最大級(全国第5位)の城域を持つ大城郭となりました。

しかし、元和8年(1622)に3代藩主最上義俊が御家騒動(最上騒動)の為に改易となり、新たに山形藩の藩主に就任した鳥居忠政は最上家時代を一新する為に山形城の改修と城下町の改変を断行し、最上家縁の社寺などは軋轢を受けました。その後は有力譜代大名が藩主を歴任したものの、次第に石高的には小禄となり、数万石程度の一般的な藩となり明治維新を迎えています。ただし、城郭の規模だけは維持された為、その管理費は藩の財政を圧迫したとされ、施設の改修や修復は最小限に留まっています(本丸に設けた施設などは取り壊された後は再建されず更地となり、城郭の一部は田畑として利用された所もありました)。明治維新後に発令された廃藩置県により山形藩が廃藩になると山形城に残された施設も取り壊され、特に本丸は内堀が埋められ軍の施設として大きく改変されていました。国指定史跡。日本100名城。

【寺町】−江戸時代初期の山形城の城下町には71ヵ寺の寺院が存在しましたが、その内の専称寺を中心とした浄土真宗の寺院14ヶ寺が寺内町(寺町)を形成しました。中心となった専称寺は最上義光が娘だった駒姫の菩提を弔う為に創建した寺院で、最上家の菩提寺である光禅寺と同様に篤い庇護を受け大寺院として発展しました。駒姫は義光の次女で絶世の美人だったとされ、当時の権力者である豊臣秀吉の甥で、時期豊臣家の当主と見られた豊臣秀次の側室として嫁ぎましたが、秀吉の実子とされる豊臣秀頼が生まれると、秀次は謀反を理由に排斥され、自刃に追い込まれ、一族は女子供まで京都の三条河原で斬首されました。駒姫もその斬首された1人で(享年15歳)、怨みに感じた義光が関ヶ原の戦いで豊臣家を見限り東軍に与したとも云われています。専称寺の本堂は元禄16年(1703)に再建されたもので、現在の山形市内に残る本堂建築の中では最大級の規模を誇り山形市指定文化財に指定され、境内には駒姫の供養塔が建立されています。

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