【 概 要 】−松平信通は延宝4年(1676)に古河藩主で老中である松平信之と小出吉英の娘との子供として生まれました。貞享3年(1686)に信之が死去すると長兄である松平忠之が古河藩9万石を継ぎ、その内1万石が信通の分知され興留藩(現在の奈良県生駒郡斑鳩町興留)の藩主に就任しています。元禄6年(1693)、忠之が突然髷を下ろし、この行為が幕府に知れると乱心として改易となり身柄が信通に預けられました。結果的に藤井松平家の惣領の家督を継承した事で庭瀬藩(岡山県岡山市北区庭瀬)3万石の藩主となり元禄7年(1694)には従五位下、中務少輔に叙位・任官されています。
元禄10年(1697)に上山藩(山形県上山市)に移封になると藩庁となる上山城を改修し改めて城下町の整備が行われています。本丸の一角には東照宮が創建され、その後、藤井松平家始祖である松平利長の御霊と、2代目で家祖となった松平信一の御霊が勧請されています(元々の社号が東照宮である事から徳川家康が祭られていたと思われますが、現在は月岡神社と改められ徳川家康は祭られていないようです)。
城下の一角に鎮座している栗川稲荷神社は元々庭瀬藩の陣屋の鎮守社で、信通が上山藩の移封が決まり上山城に向かう道中で川の氾濫を予言し窮地を救った事から益々篤い庇護を受けるようになったと伝えられています。又、上山の名刹だった浄光寺を領内菩提寺に定め、松平家位牌壇には縁のある「松平家牌所阿弥陀如来立像」が安置されています。
上山城の城下町には松平信通と共に上山に入った森本家、山田家や後に信通に従った曽我部家の武家屋敷が残され何れも上山市指定文化財に指定されています。享保7年(1722)死去、享年47歳、戒名:涼応院殿咸誉道義大居士。
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