清水城

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清水城:略データ
・場 所・山形県最上郡大蔵村清水
・築城年・文明10年(1478)
・築城者・清水孫次郎満久
・城 主・清水氏
・構 造・平山城
・文化財・山形県指定史跡
・指定日・平成23(2011)年12月27日
・概 要・文明8年(1476)に最上家2代当主最上直家が、6男である鳴沢兼義の次男、満久を当地に配しました。

当初は白須賀に居館を構えていましたが、文明10年(1478)に満久が清水城を築城し本拠地を遷した事で、地名に因み「清水」姓を掲げました。

清水城は最上家にとって庄内地方侵攻への拠点で、最上川舟運の中継地、庄内地方を支配した大宝寺氏や最上郡北部を支配した小野寺氏からの侵攻を食い止める防波堤のような存在だった事から、度々攻防戦が繰り広げられました。

永禄6年(1563)に大宝寺義増が小野寺氏の家臣で最上郡戸沢村の岩鼻館に配された佐々木貞綱を破ると、清水城が最上領の最前線となった為、当時の城主である清水義高がその対処に負われました。

永禄8年(1565)に義増が当地に侵攻すると本合海で合戦となり義高は討死、大宝寺軍は村山郡まで進軍し、一時占拠しています。

義高は名君だったようで、現在伝承されている合海田植え踊りは、義高が領内の村人達の日頃の慰労と五穀豊穣を祈念する為に、上方から踊りの達人を呼んで伝授されたものと伝えられています。

義高の跡を継いだ6代目清水義氏も庄内勢との対立が続き、永禄年間末期頃には一時捕虜となっています。

義氏は嗣子がいなかった事から、娘である清水姫に婿養子を迎え継がせるつもりでしたが、主家である最上義光の画策により、義光の三男、義親が養嗣子として送り込まれ、清水氏の本流は断絶しています。

義親は知行2万1千3百石を安堵され、最上家の有力一族と重きを成し、庄内地方が上杉領になるとその対処に当たっています。

一方、最上義光は最上家の安泰を図る為、次男の最上家親を徳川家康の近習、三男の義親を人質として豊臣家に出しており、その後、義親は長兄の最上義康の旗下に入る等、独特な経緯を持ちました。

慶長5年(1600)に発生した関ヶ原合戦後に行われた上杉勢掃討戦の際、義親は義康に従い庄内攻めに従軍し、功績を挙げた事で、義康から「康」の偏諱を賜り「康氏」と名乗っています。

ただし、義康は父親である義光との確執から暗殺された為、その旗下から離れ、逆に義光から「光」の偏諱を賜り「光氏」に改名しています。

慶長19年(1614)に義光が死去すると、最上家の家督は親徳川家の次兄最上家親が継いだ事から、豊臣家の人質経験のある光氏との関係が悪化しています。

特に徳川家と豊臣家が緊張状態となった事も遠因となり、大坂方に加担しているとの謀反の疑いがかけられると、同年10月に家親に従った延沢遠江守光昌と日野将監光綱の兵1千8百の軍勢を差し向けられ清水城は落城、光氏も13歳だった子供の清水義継と共に自刃して果てています。

光氏の首級は山形城に運ばれ、残された胴体は領民が手厚く火葬し、遺骨を清水氏の菩提寺である清水山興源院に納めたと伝えられています。

光氏は名君だったようで、地名の「大蔵村」は、光氏が「大蔵大輔」と呼ばれていた事に因んだものとされます。

清水氏が滅亡した事で、当地は家親の蔵入地となり、沼田城(現在の新庄城)に配した日野将監光綱を代官として管理させています。

元和3年(1617)に家親が死去すると、跡を継いだ子供の最上義俊と、家親の弟である山野辺義忠との対立が激化。

両者の対立は最上家中を二分する騒動となり、結果的に幕府にも知られた為、元和8年(1622)、御家騒動により最上家は改易、それに伴い清水城も廃城となっています。

清水城は最上川左岸の標高130m(比高30m)の丘陵に築かれた連郭式平山城で、本丸は東西36間、南北46間、その南側に位置する二之丸は東西52間、南北43間の規模となっています。

本丸と二之丸の南側には深い堀と高い土塁が設けられ、最上川とその支流である藤田沢川が天然の外堀と見立ていたようです。

さらに、本丸の東側には帯曲輪、北側には小規模な曲輪群が配され、二之丸の南側には城下町が町割り、さらにその谷地には清水氏の菩提寺である清水山興源院が境内を構えています。

清水城の城址は現在も土塁や堀、曲輪等の遺構が残され、貴重な事から平成23(2011)年に山形県指定史跡に指定されています。

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