| ・小松城が何時頃築かれたのかは判りませんが、鎌倉幕府の有力御家人大江広元の次男である時広の後裔で、出羽国置賜郡長井荘の地頭を歴任した長井氏によって築かれたと推定されています。
室町時代の元中・応永年間(1384〜1428年)頃には長井広房の家臣である船山因幡守が城主を務めていました。
一方、天授3年(1377)に伊達家9代当主に就任した伊達政宗は、父親の伊達宗遠と共に出羽国長井荘に侵攻を開始しています。
天授6年/康暦2年(1380)には伊達宗遠が出羽国置賜郡の一部を占拠、高畠城に入り長井荘攻略の拠点としています。
それに対し、長井広房は鎌倉公方の足利氏満に救援を要請し、それに応じた氏満の命により、近隣の領主達が長井氏に味方した事から当面の危機を脱しています。
しかし、元中2年/至徳2年(1385)、伊達政宗が再び侵攻を開始、長井荘は堕とされ長井広房は鎌倉に退去した事から、船山因幡守も命運を共にしたと思われます。
小松城には伊達家の重臣である大町修理亮貞継が配され、大町家が7代にわたり城主を歴任、明応3年(1494)に大町氏が出羽国長井荘弓田郷に移封した事に伴い、その後は桑折氏が当地に入封し城主を務めています。
桑折氏は伊達家3代当主伊達義広、又は4代当主伊達政依の子供とも云われる頼長を祖とする伊達一族で、文明11年(1479)から文明12年(1480)に行われた出羽国寒河江荘攻めでは桑折播磨守宗義が大将に抜擢されています。
菖蒲沼の戦いでは寒河江氏の一族である溝延氏と左沢氏の奇襲を受け大敗、宗義も手傷を負い自刃して果てています。
桑折景長は宿老として伊達稙宗に仕えていましたが、稙宗が三男の時宗丸を越後守護職である上杉定実の養子に送り込もうとした事に反対し、天文11年(1542)に発生した天文の乱の首謀者の1人となっています。
景長は稙宗の長男である伊達晴宗を擁立し、晴宗方の主力として功績を挙げ、天文17年(1548)に事実上勝利を収めると、守護不輸権等の特権を獲得しています。
天文22年(1553)、景長は陸奥国刈田郡万行楯城に移封となった為、代わって牧野久仲が小松城の城主に就任しています。
久仲は中野宗時の次男として生まれましたが、桑折氏と同様に陸奥国守護代を担った牧野氏の養嗣子に迎え入れられ、牧野家の名跡を継ぐと家臣団の中で大きな権限を持ちました。
この頃、伊達家では隠居した伊達晴宗と、伊達家の家督を継いだ伊達輝宗の対立が顕著となり、中野宗時と、牧野久仲は晴宗方でありながら、輝宗の執政を担う等、両者を取り持つ立場だったようです。
しかし、元亀元年(1570)に輝宗は、自身に従った新田景綱と小梁川宗秀に命じて宗時、久仲父子に謀反の疑いがあるとして小松城を攻めさせています。
一説には久仲は宗時を小松城に招いて連歌に興じ、輝宗の命を無視して米沢城の出仕を怠り、さらに、遠藤基信の暗殺を図ったものの失敗した事から小松城に籠城するに至ったとも云われています。
小松城は大きな抵抗もないまま落城したようで、中野、牧野家一族は伊達家と敵対していた相馬氏領に落ち延びています。
代わって、小松城には再び桑折景長が入り、天文12年(1543)に養嗣子として迎えていた伊達稙宗の6男宗貞の死去により、景長の長子である桑折宗長が家督を継いでいます。
城外に境内を構えている仏成寺は景長の菩提寺とされ、墓域には景長の墓が建立されています。
宗長は伊達政宗の重臣として主要な合戦に従軍し功績を挙げ信任も篤かったとされ、宗長の跡を継いだ桑折政長も父親と共に数多くの合戦に従軍しています。
天正19年(1591)に奥州仕置きにより伊達政宗が米沢城から岩出山城に移封になると、政長は陸奥国江刺郡の岩谷堂城に配された為、小松城は廃城になったと思われます。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原合戦では、西軍に与した上杉家の執政を担った直江兼続が長谷堂城に向けて進軍の際、当地で宿営し重陽の節句の祝い酒を酌み交わしたと伝えられています。
小松城は連郭式の平城で、東西90m余、南北120m余の本丸を中心に、北郭と南郭を配する三郭で構成されています。
周囲を高さ5m程度の土塁と堀で囲い、城域は東西100m余、南北250m余、西側に流れる犬川が天然の外堀に見立ていたようです。
現在も本丸の土塁と堀の一部が残され、往時の雰囲気が感じられます。
山形県:城郭・再生リスト
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