本楯館

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本楯館:略データ
・場 所・山形県寒河江市本楯1丁目
・築城年・文治6年=1190年頃
・築城者・多田仁綱
・城 主・多田仁綱
・構 造・平城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・本楯館は文治6年(1190)に寒河江荘の目代として当地に入部した多田仁綱が築いたと推定されています。

鎌倉幕府の有力御家人だった大江広元は幕府成立に大きく貢献し、官位も初代将軍の源頼朝に次ぐ高さで事実上のナンバーツーの地位を確立、文治5年(1189)に寒河江荘と長江荘の地頭職が与えられています。

大江広元は幕府の法整備等の内政や朝廷や公家などに対しする外交面で大きな役割を担い鎌倉に留まった為、知行地である寒河江荘の管理を広元の正室の父親である多田仁綱に任せ、翌年の文治6(1190)4月に仁綱は寒河江荘の本楯に入ったとされます。

当地は最上川とその支流である寒河江川や須川が合流する要衝で、寒河江荘を支配するに相応しい所だった事から、拠点となる本楯館が設けられたと思われます。

多田仁綱は「安中坊系譜」によると、経基流清和源氏の初代源経基の子供である源出羽守満成の長男の左近将監満信の後胤とされる人物で、摂津国多田郷吉川村(現在の大阪府豊能郡豊能町)で生まれた事から、地名に因み「多田」姓を掲げています。

仁綱が領内を視察し、寒河江川の中流に差し掛かった際、生誕地だった摂津国多田郷吉川村の風景に大変良く似ていた事から、故郷を懐かしみ、そこにも館を造営し、地名を「吉川」に改めたと伝えられています。

仁綱の孫で、大江広元の長男とした生まれた大江親広は建保7年(1219)に京都守護を任ぜられ、朝廷との関係を深めた事もあり、承久3年(1221)に承久の乱が発生すると、後鳥羽上皇方に与し、幕府方と戦っています。

後鳥羽上皇方は京都に進軍する幕府軍を食い止める為に食渡(現在の岐阜県羽島郡岐南町)に布陣、親広も参陣したものの、敗北し京都に撤退しています。

さらに、宇治での戦いにも出陣しましたが、ここでも敗北し、逢坂関の東にある関寺付近まで退いた後に、親広は仁綱を頼り寒河江荘に落ち延びています。

親広は当初、吉川館で囲われ、その後、西川町沼山、さらに大江町富沢に居を遷し、隠遁生活を余儀なくされます。

一方、吉川館には嘉禄元年(1225)に死去した大江広元の慰霊の為に阿弥陀堂が造営され、仁綱も堂守になる為に出家して正阿源宥を号したと伝えられています。

貞永元年(1232)に御成敗式目が制定され親広が幕府から許されると、寒河江荘支配の本拠地を内楯(後の寒河江城)に遷した為、その後、本楯館は支城のような役割を果たしたと思われます。

ただし、親広は幕府から許されると吉川館に戻り、安仲坊と号したとも云われ、西村山郡史によると仁治2年(1241)に親広が吉川館で没すると阿弥陀堂の傍らに葬られたと記されています。

又、寒河江城が本格的に築城されたのは、弘安8年(1285)に発生した霜月騒動で、大江泰広、大江盛広、大江泰元等が討死し、大江元顕が寒河江荘に入部した際や、

正慶2年(1333)に鎌倉幕府が滅亡し、大江顕廣や大江懐顕が寒河江荘に落ち延びた際に築いたとの説があり、それまでは、本楯館が当地の中心的な城郭だった可能性があります。

本楯館が何時頃廃城になったのかは判りませんが、天正12年(1584)に大江氏の後裔である寒河江氏が最上氏に滅ぼされた際や、元和8年(1622)に最上氏が御家騒動で改易になった際などが想定されます。

本楯館は最上川河岸段丘端に築かれ、主郭の規模は東西110間、南北100間、堀幅12間、二重の堀を巡らせた方形の居館ですが、単なる居館では無く一定期間、寒河江荘支配の拠点となった相応しい規模となっています。

現在の寒河江市本楯1丁目付近が主郭部で、それを取り囲むように外郭が配され、土居の内との地名が残されています。

又、外郭の東側はかつて最上川が流れていたと思われ、外堀に見立てられていた他、船着き場を設け、最上川から直接物資が館内に運ばれていたと推定されています。

現在は宅地化の為、多くの遺構は失われましたが、主郭の北西隅の土塁の一部が残され、石碑が建立されています。

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