| ・時庭館が何時頃築かれたのかは判りませんが、元中2年/至徳2年(1385)に伊達宗遠、政宗父子よる出羽国置賜郡長井荘侵攻により領主だった長井氏が没落すると、伊達氏に従った安久津氏が当地に配され、居館として設けられたと推定されています。
安久津氏は陸奥国伊達郡大石郷阿久津(現在の福島県伊達市霊山町大石阿久津)を本貫とした土豪で、地名に因み「安久津」姓を掲げました。
安久津氏は早くから伊達家に従っていたようで、伊達家米沢御譜代を称していました。
天文11年(1542)に伊達晴宗と先代で父親でもある伊達稙宗との間で激しく対立し、天文の乱が発生すると、安久津氏は晴宗方に加担したようです。
天文17年(1548)に13代将軍足利義輝の仲裁により、事実上晴宗方の勝利として和睦が成立すると、安久津孫二郎もその功績により旧領が安堵されています。
天文22年(1553)に発給された晴宗公采地下賜録によると安久津孫二郎が陸奥国伊達郡大石郷内の「きたあくつ」「みなミあくつ」の各在家、「たきのひら屋しき」が安堵されています。
その他にも孫二郎には置賜郡黒沢郷内の「やち田さいけの内、きりた七百かり」、安久津とうはく丸に「やち田はん在家」が安堵され、広く知行地を有していた事が判ります。
又、出羽国置賜郡下長井の泉にも安久津孫二郎等の地頭領主の所領が確認されています。
天正12年(1584)の段銭帳によると、安久津修理助が時庭窪の在家外4町歩を所有していた事が記されており、修理助が安久津家の名跡を継いでいた事が窺えます。
修理助との関係性は判りませんが所領である黒沢郷内の鎮守である坪沼熊野神社は天正年間(1573〜1592年)に時庭の有力者だった安久津甚内が開創したとの由緒を伝えています。
時庭村の対岸南方に位置する歌丸村を知行していた歌丸氏は安久津氏の庶流とされ、歌丸館も安久津氏によって築かれたと推定されています。
天文の乱では孫二郎とは異なり、歌丸又七は伊達稙宗方に属していたようで、天文14年(1545)10月23日には歌丸郷内の「中野常陸介分切田千苅」「大立目分徳万在家年貢二貫文之地」が安堵されています。
又、天文22年(1553)に発給された晴宗公采地下賜録によると、歌丸若狭守が「ミつきさいけの内、七百かり、てさく栗の木田千かり」を安堵されており、その後は本家筋の安久津家と同様に伊達晴宗に従った事が窺えます。
天正19年(1591)に伊達政宗が豊臣秀吉による奥州仕置きにより、本城を米沢城から岩出山城に遷すと、安久津氏もそれに従った為、時庭館は廃館になったと思われます。
その後、時庭館の跡地に大雄山正法寺が境内を遷しています。
正法寺は永徳寺2世湖海理元禅師が当地に境内を構えていた天台宗の寺院を曹洞宗の寺院として中興開山した寺院で、置賜三十三観音霊場第6番札所に選定されている時庭観音堂を守護しています。
当初は境内を外堀と内堀が廻っていたようですが、時代が下ると次第に取崩され、現在は西側と北側一部の内堀土塁が残されています。
西側の土塁は基底7m、高さ3.65mと、長井市に現存する城館の土塁の中では最大級で貴重な存在です。
一般的には単郭の居館とされていますが、正法寺の説明では、以前は外堀と内堀が廻っていたとの事なので、主郭の外側には外郭があったと思われます。
又、正法寺からやや西側に離れた時庭観音堂の境内は時庭館の馬場だったとも云われています。
山形県:城郭・再生リスト
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