| ・中野城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、伝承によると文中年間(1372〜1375年)、又は応永年間(1394〜1427年)に中野満基が築いたと伝えられています。
中野満基は最上家3代当主最上満直の次男として生れ、出羽国村山郡中野村を本貫とした事から、地名に因み「中野」姓を掲げたとされます。
中野家2代当主満氏は、宗家当主の最上義秋に嗣子が居なかった事から、義秋の養子になったようで、文明11年(1479)に宗家の家督を継いでいます。
満氏の嫡男義淳は最上宗家を継いだ一方で、中野家の当主も併任し中野城を直接管理、義淳の嫡男義定が最上家、次男義建が中野家を継いでいます。
義定は寒河江氏の家督争いに介入した事で、傘下に組み込み、寒河江知広の娘を義定の奥方に迎える等、関係を深めています。
永正11年(1514)に伊達稙宗の山形侵攻により、義定は大敗、稙宗は最上家の本城である山形城に近い長谷堂城に家臣の小梁川親朝を配し、最上家を牽制した事から、義定は中野城に居を遷しています。
義定は伊達家との和議の条件として伊達稙宗の娘を娶ったものの、嗣子が生まれないまま永正17年(1520)に死去した為、伊達稙宗が再び最上領に侵攻、最上家に臣従していた国人領主達を傘下に治めています。
しかし、稙宗の意向に反し、国人領主達が最上宗家の家督は血縁者を推した為、大永2年(1522)に義定の弟、中野義建の孫である義守を当主に迎え入れています。
天文11年(1542)に伊達稙宗と嫡男伊達晴宗が激しく対立し「天文の乱」が発生すると、最上義守は伊達家支配から離脱し、独自勢力を確立しています。
しかし、嫡男の最上義光とは折り合いが悪く、次男の義時を擁立しようとしたようですが、家臣の氏家定直の提言を受け入れ義光に家督を継がせ、義守は中野城に隠居し、義時は中野家の名跡を継いでいます。
義光は強引な専制政治を遂行した事で、それに反発した国人領主達は義守と義時に復権を強く望んだ為、天正2年(1574)に両者の対立が顕著となり、そこに伊達輝宗が義守方として介入した事で天正最上の乱が勃発しています。
最上領内の多くの国人領主は義守方に与した為、当初は義守方有利な戦局で推移し、中野方も江俣で義光方と交戦しましたが、伊達家と同盟関係だった会津の蘆名盛興が死去した事を受け、伊達輝宗は米沢城に帰還、さらに伊達家と対立関係だった相馬氏が最上義光方に与した事から義光方に戦局が傾いています。
結局、白鳥長久の提案により、義光家臣の氏家氏と伊達家家臣の亘理氏の交渉により和議が成立しています。
しかし、天正3年(1575)に中野義時は山形両所宮で義光の呪詛を行ったとの嫌疑をかけられた事で、中野城が義光方に攻撃され落城、義時も自刃に追い込まれ、義時の子供である備中は仙台に落ち延びたと伝えられています。
ただし、中野義時は一次資料には存在が確認されておらず、18世紀末期に編纂された稽補出羽国風土略記や伝承だけに登場する事から実在性を疑問視されています。
中野の地は山形と寒河江、鶴岡を結ぶ「六十里越街道」が通過し、最上川の支流である須川が流れている事から、最上義光も重要視し、中野城には重臣を城代として配し、直接管理下に置きました。
天正5年(1577)に義光が天童頼久を下すと城下町として中野村を立村し、願正御坊縁起には「酒田船ヲ通路セシメント巧計シ…大石田ト中野・船町ヲ舟往還ノタメ村立テシ」と記されています。
天正12年(1584)に義光が白鳥長久を山形城内で謀殺すると、長久の居城である谷地城に侵攻、寒河江氏は白鳥方の救援の為、家臣の柴橋頼綱を派兵、谷地城は落城したものの、逆に寒河江、白鳥連合軍は中野城に攻め寄せています。
しかし、義光は密かに鉄砲隊を伏兵として配し襲撃した為、寒河江、白鳥連合軍は瓦解、頼綱も討死しています。
元和8年(1622)に御家騒動により最上家が改易になると、中野城も廃城となっています。
現在は中心部分が大郷小学校、周辺が宅地や畑地として整備された為、堀跡と思われる一部の水路以外は目立った遺構は失われています。
中野城は東側180間、西側200間、南側111間、北側166間、面積17町2反余、周囲を土塁、幅5〜10m程の堀で囲い、西側に流れる逆川が天然の堀に見立てられていました。
東西南北に城門が設けられ、南門が大手門で虎口だったとされます。
北東に位置する雲祥院は最上義定の菩提寺で、境内の一画には義定の墓碑が建立されています。
山形県:城郭・再生リスト
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