| ・伝承によると、平安時代後期の天喜年間(1053〜1058)頃に当地は俘囚長だった安倍氏の支配地だったとされ、要衝だった事から当地には小桜城の前身の卯の花館が築かれ、安倍貞任の娘である卯の花姫が配されていたそうです。
卯の花姫は文武に優れ、兵馬の調練を行うと、その向上を卯の花館の鎮守總宮神社の別当寺院である遍照寺の妙澄に祈願させました。
すると、馬頭観世音菩薩の化身が卯の花姫の霊夢に出現、その御告げに従い、現れた馬頭観世音菩薩を模した仏像を遍照寺に奉納すると屈強な兵馬を育てる事が出来きました。
安倍氏の反乱を平定する為に当地まで進軍してきた源義家は、卯の花姫が率いる屈強な兵馬を見て恐れをなし、和睦を申し出ました。
無益な殺生を好まない卯の花姫は義家の申し入れを受け入れ、武装を解除すると、その間隙を突いて源氏軍の総攻撃が行われ、安倍軍は総崩れとなり、安倍貞任も討ち取られてしまいました。
義家に騙された卯の花姫は、己の判断の甘さを恥じ、最後を悟ると絶壁から野川に身を投げ、それに従う女官達は34人にのぼったと伝えられています。
卯の花姫は野川の守護神となる龍神に変化したとされ、總宮神社の例大祭に奉納される獅子舞はその龍神の姿を模しているとされます。
元中2年/至徳2年(1385)、伊達宗遠、伊達政宗父子による長井荘侵攻により、長井氏より長井荘を横領すると、当地の押さえとして、卯の花館を拡張整備し宮村館を築いて有力家臣を配しています。
館主は「宮村殿」と呼ばれ、一般的には伊達家の重臣である片倉家の事とされます。
国分胤重軍勢催促廻文写によると永正六年(1509)八月一一日に越後国守護代長尾為景の後ろ盾を得て、越後国守護職となった上杉定実と、それを不服とした関東管領上杉顕定との戦いで、伊達尚宗は上杉定実方に与し、「宮村殿」に命じて片倉右京・片倉八蔵等に定実援護を催促した事が記されています。
天文11年(1542)に伊達稙宗と伊達晴宗父子が激しく対立し天文の乱が発生すると、当時の宮村館の主である片倉伊賀守頼親は晴宗方に与し、稙宗方に与し最上家の後ろ盾を得た鮎貝兵庫頭と交戦状態となりました。
天文14年(1545)に鮎貝領に侵攻すると、鮎貝方の城館を次々と攻め落とし、旧蚕桑村境まで追い返すと晴宗方勝利に大きく貢献しています。
その功績から同年九月二一日に伊達晴宗は片倉伊賀九郎右衛門頼親に対して宮村、小手村、勧進代村周辺を安堵し、同年一〇月九日に上記三か所の棟役・田銭・諸公事を五年間免除しています。
その他にも天文14年(1545)1月11日に「下長井荘久乃本郷内、谷地寺在家年貢二貫文」のほか「丹後屋敷・弥七在家・滝倉田」などが宛行われ、片倉彦次郎にも「久之本郷内、橘三郎田九百三十苅、山上三郎右衛門分切田九百苅」が与えられています。
その後も宮村館は鮎貝氏攻略の拠点として重要視され、天文16年(1547)閏7月20日には晴宗から発給された鎌田四郎兵衛宛ての書状には「宮の地は則ち近頃日々兵を進め以て之を攻む」と記されています。
その後、頼親の子供である片倉壱岐守景親が名跡を継ぎ、天文22年(1553)の采地下賜録によると「下長井宮、ちきやうのとをり、むねやくさし置候、并田銭前々なきよし申候間、そのことくたるべく候」と記され、本領が安堵され棟役と田銭が免状されています。
天正2年(1574)の記録では壱岐守は馬上72騎、鉄炮23丁等総勢417名を率いており、新田殿633名に次ぐ軍勢を誇っています。
景親は天正年間(1573〜1592)に伊達政宗の軍奉行として数度の合戦に従軍する等の功績を挙げたものの、嫡男の主水頼久が討死した事で、馬印を甥の片倉小十郎景綱に譲った事から、景綱が宮村館の館主だったとの説もあります。
天正15年(1587)に鮎貝忠旨が最上義光の後ろ盾を得て謀反を起こすと、伊達政宗の命により湯目景康、泉田重光、宮沢元巳が派兵され、宮村館がその拠点となっています。
天正19年(1591)に奥州仕置きにより伊達政宗が米沢城から岩出山城に移封になると片倉家も従い当地を離れた為、程なく宮村館も廃館になったと思われます。
江戸時代中期頃までは土塁や堀跡が残されていましたが、明治維新後に主郭に西置賜郡役所が置かれ、周辺が市街地として開発された為、多くの遺構は失われています。
小桜城は主郭と外郭からなる平城で、周囲を土塁と堀で囲い、北東には鬼門鎮守として白山神社が鎮座していました。
北方には度々謀反を起こした鮎貝氏の居城である鮎貝城が位置していた事から、小桜城の北側には防衛施設と思われる張り出しが設けられ、多くの兵が収容出来るよう、比較的規模が大きな城郭として計画されたようです。
山形県:城郭・再生リスト
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