| ・横山城が何時頃築かれたのかは判りませんが、永正9年(1512)に丸岡館主だった押切備前守が築城し、永正10年(1513)に着任したとされます。
押切氏と関係が深いと思われる山形県三川町押切の事が筆されている「押切鑑」によると「口碑に曰く。
天文年中、櫛引郷丸岡館主押切備前守移りて、横山館主たり、勢盛なりしか、後横山大膳なるもの勃興するに至り、破れて此の地に居住し、荒野を拓き農耕を奨めたり。
今の愛宕神社御神体は、当時備前守の奉戴せる所にかかると、押切の名称蓋し是に起因せるものか」と記されています。
丸岡館の前身は備前館と呼ばれ、戦国時代に押切備前守が築いたとも云われ、丸岡館は大宝寺武藤氏の居城である大宝寺城(鶴ヶ岡城)の有力な支城だった事から、押切氏は武藤氏の有力家臣だったと思われます。
又、同じく金谷館の館主も大宝寺武藤氏の家臣押切某と云われている事から、家中の中でも重きを成していた事が窺えます。
横山城は武藤氏と対立していた砂越氏の居城である砂越氏城と大宝寺城の中間に位置し、大宝寺城の城下へと続く赤川の舟運の拠点になっていた為、軍事的にも最重要拠点の一つだったと推察されます。
永禄年間(1558〜1570年)に藤島城の城主横山大膳が当地に侵攻し、横山城を接収、そのまま城主になったとされます。
ただし、当時の藤島城の城主は土佐林禅棟で、禅棟は武藤義氏の補佐役として尽力したものの、当時の庄内地方は混沌としており、その対策で義氏と対立しています。
元亀元年(1570)に上杉謙信の調停を受けて一時和解し、尾浦城に伺候したものの、訛言にあい疑心暗鬼となった土佐林禅棟は大浦城を退去し、横山城に遁走している事から、この話しと混同しているかも知れません。
天正3年(1575)に武藤義氏によって横山大膳は攻め滅ぼされ、横山城には一族の武藤氏廣が配されています。
一方、「押切鑑」によると横山大膳は押切村に落ち延び、荒野を開拓し、農耕を奨めたと記されています。
天正年間(1573〜1592年)、最上義光の庄内侵攻により、武藤氏は事実上滅亡し、名跡を継いだ本庄繁長の次男・義勝は、天正16年(1588)に繁長と主家である上杉景勝の後ろ盾を得て、旧領奪還を画策し十五里ヶ原の戦いが勃発しています。
この戦いで横山城は落城、当時の城主は氏廣の跡を継いだ武藤氏張が担っていましたが、この戦いの後に横山城を追われています。
その後は上杉景勝の支配下に入ったものの、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで、景勝は西軍に与した為、当初は最上領を席捲しましたが、本戦で西軍が敗北した為、自領に撤退、庄内地方は最上領となっています。
しかし、元和元年(1615)に一国一城令が発令されると、山形藩では本城の山形城以外は廃城になった事から、横山城も同時期に廃城になったと思われます。
横山城は赤川右岸の段丘上に築かれた平城で、主郭は東西約40間、南北50間余、大手口は西側に設け、南と北は虎口の城門が設置されていました。
慶応2年(1866)に古代から中世にかけての庄内地方の歴史を安倍親任が筆した「筆濃余理」によると大手脇の角堀を升堀と称し、小さな中島があったと記されています。
当時は西側と南側、北側に二之郭と三之郭があり、堀と土塁で囲い、北側と東側の湿地帯、西側の赤川が天然の外堀に見立てられていたようです。
現在も、主郭北側の土塁の一部が残され、貴重な事から三川町指定史跡に指定されています。
又、南側の郭内に境内を構えている泉蔵寺は横山城の城主だった武藤氏廣の菩提寺で、天正年間(1573〜1592年)に建立された氏廣の墓碑と伝わる五輪塔は貴重な事から三川町指定史跡に指定されています。
山形県:城郭・再生リスト
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