| ・余目館の正確な築城年は判りませんが、南北朝時代に安保氏によって築かれたと推定されています。
安保氏は武蔵七党の丹党を構成する氏族で、秩父綱房の次男である実光が武蔵国賀美郡安保郷を本貫とした事から地名に因み「安保」姓を掲げたとされます。
当地は「和名抄」で見られる出羽国出羽郡余戸郷に属し、鎌倉時代中期以降に海辺庄の内、惣太郷・阿佐丸郷・阿都郷・袋郷が安保氏庶家に伝領されています。
安保氏の惣領家は鎌倉幕府と命運を共にしましたが、庶流である安保光泰は足利尊氏に従い討幕に貢献した事から、惣領家の名跡を継ぎ、延元元年/建武3年(1336)には「出羽国海辺余部内宗太村」などの地頭職を安堵されています。
光泰は興国元年/暦応3年(1340)に嫡男である安保泰規に海辺庄内の余部郷と惣太郷を、次男である安保直実に海辺庄内の阿佐丸郷と阿都郷、袋郷を、三男である安保光経に海辺庄内の佐々崎郷を譲ると定めています。
しかし、同年に光経が討死すると、佐々崎郷は彦五郎に、直実は阿佐丸・袋の二郷に譲り直されています。
安保直実は南北朝時代に足利尊氏の側近で北朝方の有力武将だった高師直に従軍し、建武2年(1335)の四条河原合戦で功績を挙げ、師直から感状と太刀を賜っています。
興国元年/暦応3年(1340)には光泰から安保郷屋敷、出羽海辺余部郷などを与えられたものの、度々他領に乱入したり、闘茶を繰り返した為、「悪党」と呼ばれ不孝者とされました。
直実が当地に入部したのは正平年間(1346〜1370年)とされ、この頃に居館として余目館を築いたと推定されています。
応永5年(1397)に余目郷の総鎮守だった余目八幡神社を余目館の鎮守社として、館内に遷座しています。
応永23年(1415)には、当時の館主だった安保太郎助形が太初継覚和尚を招いて、安保家の菩提寺となる乗慶寺を開創しています。
天正3年(1575)に16代当主安保能形が死去すると、急遽、弟である安保与次郎が家督を継ぎましたが、敵対していた大宝寺義氏に余目館を攻められ落城、与次郎も討死しています。
当地が大宝寺氏領になると、余目館には家臣である梅木氏が配されています。
天正15年(1587)に最上義光の庄内侵攻により、大宝寺義勝が敗れ、実父の本庄繁長を頼り越後国に逃れると、一時、最上家の支配下に入りましたが、翌年の十五里ヶ原の戦いで、上杉家の後ろ盾を得て繁長、義勝父子方が勝利しています。
天正18年(1590)に行われた奥州仕置きにより、藤島一揆が発生すると、その不手際で天正19年(1591)に大宝寺義勝は改易となり、庄内地方は上杉家支配となっています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで、上杉景勝は西軍方に与し敗北、一方、最上義光は東軍に与し勝利に大きく貢献した為、庄内地方は最上領となり、山形藩が立藩しています。
余目館の動向は判りませんが、元和元年(1615)に一国一城令が発令されると廃城になったと思われます。
元和8年(1622)に御家騒動により最上家が改易になると、酒井忠勝が13万8千石をもって入封し庄内藩を立藩、当地には次男である酒井忠俊が配され、余目領5千石が分知されています。
一方、別説では天和2年(1682)に忠俊の長男である酒井忠高に余目領5千石が分知されたとも云われています。
何れにしても、余目酒井家は領内統治の為、余目館の跡地に陣屋を設けたものの、嗣子が無く断絶となり、元禄9年(1696)以降、余目領は天領や庄内松山藩領に組み込まれたとされます。
余目陣屋も廃され、鎮守社だった余目八幡神社は現在地に遷座し、余目館の跡地には乗慶寺が境内を遷しています。
余目館は内郭約100m四方のf複郭の居館で、南側と西側は深田、北側と東側は堀で囲われ、現在の乗慶寺山門に向かう道筋が大手筋だったと推定されています。
現在は目立った遺構は失われましたが、天保15年(1844)に乗慶寺の境内に建立された安保氏16代の供養塔が庄内町指定文化財に指定されています。
山形県:城郭・再生リスト
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