小漆川城

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小漆川城:略データ
・場 所・山形県西村山郡大江町左沢
・築城年・寛永元年(1624)
・築城者・酒井直次
・城 主・酒井直次
・構 造・輪郭式崖端城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・元和8年(1622)に御家騒動により山形藩主最上家が改易になると、藩領の一部だった庄内地方に酒井忠勝が入封し、13万8千石を以て庄内藩を立藩しています。

同年、酒井忠勝の弟である酒井直次が出羽国西村山郡左沢周辺1万2千石が分与され、庄内藩の支藩となる左沢藩を立藩しています。

当初は天領と左沢藩が混在していたましたが、寛永元年(1624)にそれらが整理され、知行地73箇村が確定しています。

当地域の中心的な城郭は、中世以来、左沢楯山城でしたが、楯山城は中世の山城で行政面や経済活動に不便で支障があった事から、新たに小漆川城が築城されました。

同時に城下町の町割りも行われ、楯山城の鎮守社だった八幡神社を現在地となる城下町に遷座し、小漆川城の北東には城の鬼門鎮守として神明神社を創建しています。

城の北西には酒井家の菩提寺となる巨海院を元屋敷から境内を遷し、境内の南と西に土塁を設けて、当方向からの攻撃に対処出来るようにしています。

小漆川の東対岸には城下町を町割りし、その要地には実相院や称念寺、法界寺を配し防衛施設に転用出来るように配慮しています。

又、主要街道である米沢往来、六十里越街道を城下町に引込、最上川舟運の河岸として左沢湊を整備する事で経済的な発展を図っています。

寛永7年(1630)3月10日、享年35歳で直次が死去すると、嗣子が居なかった事から、寛永8年(1631)に左沢藩は廃藩となっています。

直次は小漆川城内で死去したと見られ、戒名「慈光院殿親衛涼誉琳清大居士」が与えられると菩提寺である巨海院に葬られ墓碑が建立されています。

左沢藩領は一旦天領となり、その管理を庄内藩に命じられたものの、寛永9年(1632)に熊本藩主加藤忠広が改易となり庄内丸岡領1万石が充てられた為、その分と交換する形で、正式に庄内藩領に組み込まれています。

正保4年(1647)に庄内藩の支藩となる松山藩が立藩すると、慶安元年(1648)に当地がその飛地として松山藩領になった事から城下町の一画に松山藩の出張陣屋が設けられ、小漆川城は廃城となっています。

小漆川城は月布川によって形成された比高20m程の河岸段丘に築かれた輪郭式の城郭です。

城域は東西400m、南北300m程で、東西60間、南北40間の本丸を中心に南西には東西40間、南北35間の二之丸、それらを取り囲むように三之丸が配されていました。

又、本丸北側の三之丸は、家臣の武家屋敷を配する為に短冊形に地割され、現在も当時の家臣の子孫の一部が住んでいるそうです。

城内に入る主要な出入り口となる、東側と西側は虎口が設けられ、本丸と二之丸の出入り口も細かく地割されてる事から虎口だったと推定されています。

本丸と二之丸の周囲は土塁と堀が廻り、南側に流れる月布川と、北側と東側に流れる小漆川が天然の外堀、西側には百間堀と規模の大きい土塁で、背後の台地と分断していました。

廃城後も長く、堀や土塁等の遺構が残されていましたが、明治35年(1902)に本丸を貫く道路が開削されると大きく棄損され、その後も宅地開発等で随時遺構が失われています。

巨海院の惣門は小漆川城の三之丸搦手門、山門は大手門を移築したものと伝えられる建物で、特に山門は入母屋、本瓦葺、三間一戸、桁行3間、梁間2間、八脚楼門、小漆川城の数少ない遺構として貴重な事から平成元年(1989)に大江町指定有形文化財に指定されています。

又、境内に建立されている酒井直次と直次夫人の墓碑も貴重な事から平成元年(1989)に大江町指定史跡に指定されています。

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