| ・溝延城は、南北朝時代に大江時茂の長子である大江茂信が当地に配された際に築いたとされます。
正平11年/延文元年(1356)に斯波兼頼が出羽国按察使として出羽国最上郡山形に入部、翌年には山形城を築き、周辺の北朝方勢力を糾合し、南朝方の大江氏や山家氏などと激しく対立しました。
正平13年/延文3年(1358)に足利尊氏が死去すると、全国的に南朝方の軍事行動が活性化した為、南朝方の鎮守府将軍である北畠顕信は鳥海山大物忌神社に南朝復興と出羽国静謐を祈願、それに伴い大江氏と斯波氏との対立も激化しています。
正平14年/延文4年(1359)、大江元政は斯波兼頼と決戦に臨んだものの敗北し、弟である大江懐広と大江顕広が討死しています。
これにより、斯波氏に対し領土防衛が急務となり、大江氏の家督を継いだ大江時茂は長子の大江茂信に溝延城、次男の大江元時に左沢楯山城、茂信の子供である大江政広に白岩城を築かせています。
一方、明応5年(1496)に制作された松蔵寺幹縁疏には「寒河江之城主、謂式部太夫者、子息四人有之、号嫡男四郎于後式部太夫曰焉、次男備前守是者同国溝延村有居城後白岩居城」と記されています。
茂信は地名に因み「溝延」姓を掲げ領内整備に尽力したと思われますが、暫く膠着状態が続いた後の、正平22年/貞治6年(1367)に鎌倉公方足利基氏と室町幕府2代将軍足利義詮が立て続けて死去した事から、再び南朝方の行動が全国的に活発化しています。
正平23年/貞治7年(1368)、大江氏を中心とする出羽国南朝方の勢力を押さえる為、奥州管領大崎直持と羽州管領斯波兼頼が率いる数万に及ぶ大軍が大江領に侵攻しています。
大江時茂は茂信を総大将に抜擢、茂信は溝延城に家臣である安孫子紀伊を城代として残し、戦場に赴むくと、最上川沿いに強固な防衛ラインを敷いて大崎、斯波の大軍と対峙しました。
しかし、正面突破は無理と悟った大崎、斯波軍は五百川渓谷方面に迂回、さらに別動隊が漆川を渡り大江軍を背後から急襲させた事で、大きく陣形を乱しています。
大江軍は陣形を立て直す為に荻袋要害に集結しましたが、そこを大軍によって追撃され、奮戦空しく大江一族家中合わせて61名が自刃に追い込まれています。
茂信もこの戦いで命を失っており、その報が溝延城に届くと、城代だった安孫子紀伊は子供と共に殉死したとされます。
ただし、大崎、斯波軍も被害が甚大だったと見られ、自領に引き上げた事から、大江氏の本領である寒河江荘は維持され、文中2年(1373)に家督を継いだ大江時氏が北朝方の鎌倉公方足利氏満に子供の元時を出仕させ、正式に本領が安堵されています。
時氏は本拠地を寒河江郷に遷すと地名に因み「寒河江」姓を掲げ、茂信の嫡男と思われる家広が「溝延」家の家督を継いでいます。
慈恩寺舞楽舞童帳によると永禄4年(1561)1月に慈恩寺山内で院家の間に問題が発生すると、慈恩寺の旦那だった寒河江氏と白岩氏、溝延氏で話し合いが行われ解決しています。
永禄7年(1564)4月16日に記録された東光坊置文写によると、箕輪村の田地年貢について問題が発生すると、寒河江氏と白岩氏、溝延氏の代官が集まり、文献等を調査して解決しています。
これらの事から、溝延氏は本家筋の寒河江氏の一族衆として白岩氏と共に重きを成していた事が窺えます。
天正2年(1574)に隠居した最上義守と嫡男で当時の最上家当主最上義光が激しく対立し天正最上の乱が勃発すると、寒河江兼広は義光方に与したのに対し、一族衆の溝延氏と白岩氏、左沢氏は義守方に与した為、義守方の寒河江城攻めに三氏は協力しています。
天正12年(1584)、最上義光は娘婿だった白鳥長久を山形城に招いて謀殺、さらに白鳥氏の本拠地だった谷地城を攻め落としています。
義光は次ぎの標的を寒河江氏に定めた為、寒河江高基は白鳥家の遺臣を糾合し弟の柴橋頼綱を総大将として最上方の中野城に攻め込みましたが、義光が密かに布陣させていた鉄砲隊により頼綱は討死しています。
結局、寒河江高基は貫見楯に退いたものの自刃に追い込まれ、溝延氏も命運を共にしたと推定されています。
その後、義光は溝延越中守を5千石で溝延城に配したものの、程なく廃城になったと思われます。
一方、城代として溝延城に赴任していた安孫子紀伊は密かに慈恩寺の聞持院に身を隠し溝延長老を名乗っていましたが、最上家に密告され、詮議の上、最上院で自害させられたと伝えられています。
溝延城は三重の堀と土塁に囲まれた輪郭式の平城で、本丸は東西145m、南北160m、二之丸は東西312m、南北300m、北西部には三之丸が配されていました。
現在は堀の一部が水路として残され、城跡の一画が溝延城址公園として整備されています。
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