寒河江城概要: 寒河江城は鎌倉時代以来、寒河江荘の地頭職だった大江氏の本拠地として約400年の間、本城としての役目を果してきました。築城年は不詳ですが貞永元年(1232)に大江親広の蟄居が解かれた際に居館を設けたのが始まりとされます。当初は本丸のみの比較的小さな城でしたが、時代が流れるにつれ領土が広大するのと同時に城郭も拡張され、8代目時氏の代には二の丸、三の丸を持ち、本丸部は東西110m、南北180mに2箇所の城門、二の丸部は東西110m、南北330mに3箇所の城門、祈願所の惣持寺を配置、三の丸部は東西約400m、南北約550mに5箇所の城門、東北隅に薬師堂があり三重の掘りと土塁に囲われた堅固な平城が完成しました。
その後、大江氏の領土も西村山郡の大部分を占める程に成長し、石高は8万石を領するに至り、戦国末期になると北上を続ける最上氏と雌雄を決する事になります。永禄3年(1560)の最上家の侵攻には撃退したものの、天正2年(1574)には周辺の豪族が最上氏に転じた事で寒河江城は落城、さらに、天正12年(1584年)に当主大江高基の弟勘十郎を大将として奮戦しましたが遂に敗れ高基は御楯山上まで敗走しそこで自刃したと伝えれられています。
周辺は最上氏が支配し、文禄年間(1592〜1596年)には最上義光と大江氏の娘との間に生まれた最上義康が寒河江城の城主となりましたが、慶長5年(1600)の関が原の戦いの際、義康が留守の隙に上杉勢の侵攻により再び寒河江城は落城しています。本戦である関が原で西軍が敗れた為、上杉勢は領内に撤退し、その後は義光の弟である家親、大江氏の旧臣寒河江肥前と城主が代わり、元和8年(1622)に最上家が御家騒動の為改易になると、寒河江城は廃城となり城郭は破棄されました。
現在、本丸跡が寒河江小学校地となり、平城だった事もあり遺構はほとんど見当たらず、僅かに三の丸にあった辰巳門(東南方)だけが澄江寺の山門(寒河江市指定有形文化財)としてに移築されています。又、隣家には歴代寒河江城主が信仰していたという駒形堂が建立されています。
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