谷地城(河北町)概要: 谷地城は弘治年間(1555〜1558年)中条長昌(中条家6代目当主) によって築城されたのが始まりとされますが長昌には子がなかった為、その後継を白鳥十郎長久が譲り受け天正10年(1582)頃までに城郭の拡張を行っています。長久は名君の誉れも高く、谷地城の改築や城下町の整備、領内の殖産の向上などに力を入れる一方で、当時覇権を握ろうとした織田信長に名馬を送るなど外交政策にも長けていました。その頃、出羽国統一を図る最上義光は北上を続け、長久と敵対視していましたが婚姻関係を結ぶ事で直接対決を避けていました。
天正12年(1584)に重病と称した義光を長久が見舞う為、山形城に入城した時に忙殺され一気に形成が最上氏に傾き、谷地城は落城、白鳥氏は滅亡し、谷地城は最上家の持城となり家臣である斎藤光則が配されました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは上杉家執政である直江兼続の出羽侵攻部隊の左翼隊によって谷地城は奪取、西軍が敗れると上杉家の本隊が領地に引き上げる中、上杉家臣である下治右衛門吉忠を中心に約2千5百名が11日間に渡り籠城戦を展開し激戦が繰り広げられましたが、天下の趨勢が決まり最上氏によって再び落城しています。
その後、元和8年(1622)に最上家の御家騒動によって改易になると谷地城も廃城になったと思われ、そのほとんどが破却され、現在はその形状をほとんど見る事が出来なく三社宮の社殿が遷座している僅かな高台が谷地城本丸の土塁の跡とされます。谷地城は輪郭式平城で三重の堀を有する広大なもので本丸は南北240m、東西120m、幅14〜15m、高さ3〜4mの土塁と水堀で四周を囲い内部には約20アールの屋敷があったとされ、二の丸は南北450〜500m、東西350mの規模がありました。
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