| ・大塚城は鎌倉時代初期に藤原道長の9世後裔の大塚因幡守親行が出羽国置賜郡長井荘に赴き築いたと伝えられています。
詳細は判りませんが、大塚氏は鎌倉時代に長井荘の地頭となった大江氏の家臣として当地に配された可能性や、平安時代後期に藤原摂関家の荘園として成立した寒河江荘に配された藤原氏の一族とも考えられます。
その後の経緯も不詳ですが、元中2年/至徳2年(1385)に伊達家の侵攻により、長井荘の領主だった長井氏が没落した事から、大塚氏は伊達家に従ったと思われます。
大塚姓の文献的初見は永正六年八月十一日に伊達家13代当主伊達尚宗が越後に出兵した際に発給した国分胤重軍勢催促廻文写に「大塚殿」と記されています。
その後、大塚家の惣領だったと思われる大塚下総守は伊達稙宗に従い、敵対していた最上家との合戦で功績を挙げ、永正十二年十二月二十六日に安堵状が発給されています。
安堵状には一族と思われる大塚与□□衛門や大塚四郎右衛門、大塚藤右衛門、大塚美濃、大塚信濃等が散見され、かなりの勢力があった事が窺えます。
一方、一族と思われる大塚将監は伊達晴宗に仕え、天文11年(1542)に伊達稙宗と伊達晴宗との対立である天文の乱が発生すると、大塚将監は晴宗方として行動し簗川城を守備する等の功績を挙げたようです。
天文17年(1548)に室町幕府13代将軍足利義輝の仲裁により、事実上晴宗の勝利で和睦が成立すると、その恩賞として「 大塚下総守名跡相続につき下総守天文十一年六月までの知行の通り少しも残さず下しおき候、すなわち林崎館めぐり共に前々の如く諸役さしおき候・・」との安堵状が天文22年(1553)に給され、この「林崎館」が「大塚城」の事とされます。
伊佐沢郷芦沢からの年貢一五貫文と「四郎兵衛やしき」「大石在家三分一、あくと在家一間」からの年貢三貫文に漆二盃・蝋二斤の上納を命じられた一方で、芦沢の「河前在家」「岩穴在家」を与えられ、伊佐沢郷の総成敗権を認められています。
その他にも、大塚将監は上長井庄李山郷や、名取郡、伊達郡、信夫庄の一部の所領が認められ、先代の大塚下総守の名跡を引継ぎ大塚家の惣領になったようです。
天文18年(1549)に熊野大社に奉納した熊野願文写には、伊達家の重臣だった中野常陸介藤原朝臣宗時と共に、大塚左近将監藤原朝臣縄頼の名前が連ねており、大塚将監が家中でもかなりの地位を得ていた事が窺えます。
「貞山公治家記録」巻之三によると天正16年1月8日の大雪の中、千手院で開催された御佳例心経会と、その後の酒宴に大塚左衛門が参加しており、「大塚氏、姓ハ藤原ナリ。先祖、羽州置賜郡下長井荘大塚邑ニ住ス。因テ氏トス。家系不伝。一族ナリ。左衛門後ニ名ヲ伯耆ト改ム。其子ヲ左衛門重頼ト称ス。晴宗君ノ時、天文廿二年采地目録ニ大塚助太郎殿ト有リ。左衛門某カ旧名歟、又其父ナル歟、不詳。」と紹介されています。
天正19年(1591)に豊臣秀吉による奥州仕置きにより、伊達政宗が米沢城から岩出山城に移封になると、当時の城主である大塚左衛門佐宗頼は老齢の為、当地に帰農し、代わって孫の大塚伯耆高頼と、その弟、大塚頼賢が政宗に従い当地を去っている事から大塚城は廃城になったと思われます。
基本的に大塚家は一旦、断絶した後に高頼と頼賢が伊達家の家臣として召し抱えられた形となり、高頼は政宗から伊達家の一族に列せられ、知行70石を安堵されたものの、石高は低く押さえられ、旧家臣団の多くは当地に残り、江戸時代には米沢藩の在郷武士として存続したようです。
その後、大塚城の城址には周辺の米沢藩の年貢米を貯蔵する藩蔵が数棟設けられ、明治時代半ば頃まで現存していたとされます。
大塚城は米沢盆地北部の平地に築かれた複郭式の平城で、本丸は東西70間余り、南北80間余り、二之丸は東西50間余り、南北80間余りの規模を誇りました。
本丸と二之丸の周囲を土塁と堀で囲い、北側に流れる最上川を天然の外堀に見立てていたようです。
現在も土塁と堀の一部が高徳寺の境内に残されている他、大手門が大塚氏の家臣筋だった牛谷家の屋敷に移築され、「牛谷家の門」として現存しています。
「牛谷家の門」は木造平屋建て、切妻、茅葺、桁行10間、梁間2間、長屋門形式、貴重な事から川西町指定文化財に指定されています。
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