天童市(歴史)概要: 天童市は中世天童城の城下町として発展した町です。城主だった天童氏は永和元年(1375)から天童市周辺へ土着後領国経営に力を注ぎ、戦国時代になっても「最上八楯」とともに最上氏に対抗し独立を保っていました。しかし、天正12年(1584)、不利を悟った最上氏が「最上八楯」の分断を画策し混乱に乗じて天童氏を攻めます。天童市は戦場となり激しい攻防の上天童城が落城、天童氏は仙台領へ落ち延びていきます。元和8年(1622年)の最上氏がお家騒動で改易になると天童市周辺は山形藩鳥居氏が治めることになりますが、以後は下野宇都宮、陸奥白河、幕府領など飛地や分地といった形式の支配が続きます。天童市は長い間特定の領主が不在だった事で城下町よりは羽州街道の宿場町といった風体の町となります。明和4年(1767)には高畠藩織田氏の所領となり領土の大半が天童市周辺にありましたが形式的には飛地で文政11年(1828)にようやく陣屋を天童市に移すことが出来天童藩を2万石で立藩します。織田氏は織田信長の子孫として名家ではありましたが無城格城主だった為、城郭は持てず(2重の堀に囲まれた陣屋)、石高が少なかったことなどから領国経営は困難を極め大きな一揆も度々起こっています。幕末から明治に掛けては政治的にも混乱し、当初は奥羽鎮撫使先導となって新政府側に立ち庄内藩と戦いますが白石城(白石市)で行なわれた奥羽越列藩同盟に調印すると一転幕府側となり中心的人物だった吉田大八が切腹する事態が起きます。天童藩は結果的には降伏し1万8千石へ減封され明治を迎えます。現在の天童市の町並みは近代化に区画整理され、昔の面影を見る場面が少なく、天童陣屋の中心はJRの線路が貫きその遺構はほとんど見る事が出来ません。その分、天童市郊外には若松寺(国重要文化財)や徳正寺(天童市指定文化財)、安楽寺(天童市指定文化財)、愛宕神社(天童市指定文化財)などが残されています。
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