天童城主九代の墓概要: 詳細は不詳ですが、天童氏7代の墓とも9代の墓とも呼ばれています。場所は天童氏と最上氏との最終決戦が行われた八幡山の山裾の位置し苔生した10数基の五輪塔と10数基の墓碑が建立されています。天童氏は里見氏の後裔とされ、最上家から養子を迎えるなど友好な関係だったようですが、戦国時代に入ると最上家と対立しました。天童氏には最上八楯と呼ばれる最上地方の有力国人領主による連合軍を率いていた事で戦力が拮抗していましたが、最上義光はその中でも勇将として知られた延沢城の城主野辺沢満延を懐柔する為に満延の嫡男康満に義光の娘である松尾姫を正室として嫁がせる事で最上方に転じる事に成功、さらに、天童氏の一族の東根頼景と最上家の一族ながら最上八楯となった楯岡満英を各個撃破した事で、その他の最上八楯は最上家に降伏し天童氏が完全に孤立しました。天正12年(1584)、当時の天童城の城主天童頼澄は、母方の実家である国分盛氏を頼り、落ち延び大名家としては没落し、残された気骨のある家臣達は天童城に立て籠もり最上勢を迎え撃ちましたが、孤立無援のまま天童城は落城、最終決戦場である八幡山での戦いでも敗れ主家である天童氏累代の墓の前で自刃して果てたと伝えられています。
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