長瀞城(陣屋)概要: 長瀞城は建長年間(1249〜1256年)に西根氏が最初に築いたとされ、応永21年(1414)最上4代目当主最上満家が頼宗に家督を譲り、長瀞城を居城にしたそうです。戦国時代は天童氏の勢力圏内にあり、城主である長瀞氏(最上家の庶流)は最上八楯として最上氏と対立関係にありましたが、天正12年(1584)、天童氏が没落すると最上義光の弟である義保が長瀞氏の名跡を継いでいます。
義保が早世すると最上氏は郡代を置いて支配しましたが、元和8年(1622)に最上氏が御家騒動により改易させられると鳥居忠政が入封して山形藩の藩主に就任します。寛永13年(1636)に鳥居忠恒が死去すると末期養子の禁令により一時改易となり、変わって保科正之が入封、寛永20年(1643)に正之が会津藩(福島県会津若松市)に移封になると長瀞領は天領となり幕府が直接支配し、寛文2年(1671)から幕府の代官所が置かれます。
寛政10年(1798)からは米津氏が1万2千石で入り長瀞藩を立藩、米津氏は無城格城主だった為、城とはならず陣屋と称します。陣屋は長瀞城の本丸部分(一辺が63間:114m)を利用し、3重の堀も長瀞城を引き継いでいます。戊辰戦争時に長瀞藩は白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加した為、開戦当時官軍側にあった天童藩と交戦となり陣屋の施設は炎上、明治維新後は廃城となり民間に払い下げられています。
長瀞城の最盛期は3重の堀で囲まれた平城で城下町を取り込んだ城塞都市で周囲を高い土塁で囲む威容を誇っていたそうでが、現在は内堀(1の堀)が排水溝程度残る他、外堀(2の堀)の大部分が残り当時の雰囲気を伝えています。又、禅会寺には長瀞陣屋の大手門とされる門が移築されています(長源寺山門も大手門が移築されたものと伝えられています)。
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