東根城(小田島城)概要: 東根城は当初小田島城と称し、貞和3年(1347)に小田島長義が築いたのが始まりとされます。その後、応永2年(1395)に天童頼直の四男、頼高が小田島城に入り東根氏を名乗りました。戦国時代末期になると最上氏と天童氏の争いが激化し、東根氏は「天童八楯」の一翼を担っていましたが、最上氏の内部工作の末、重臣である里見源右衛門(景佐?)が最上氏についた為、東根氏は分断され東根城は落城します。
東根氏の名跡は里見景佐が継ぎ最上氏に臣従する事で1万2千石の大身として迎え入れられました。景佐は領国経営を積極的に行い、城郭や城下町の整備や神社仏閣の勧請など多くの実績を残しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも上杉勢と戦いで功をあげました。元和8年(1622)に最上氏が御家騒動により改易になると里見氏も阿波国徳島藩蜂須賀家に預りの身となりましたが東根城は重要性から新たに山形藩主に就任した鳥居家の管理の下に維持されました。寛文元年(1661)東根城の重要性が失われると廃城となり、後に山形藩や白河藩などの代官陣屋が東根城の二の丸跡地に設けられました。
現在は本丸部分が東根小学校の敷地となり二の丸跡には愛宕神社、三の丸跡には養源寺(境内には里見景佐の御霊屋があります。)があり、堀とした沼(龍興寺沼・光専寺沼・中沼など)が城跡を取り囲むように点在しています。小学校の塀は城壁を模し、本丸跡に聳える東根大ケヤキ(国指定特別天然記念物)は日本一の大きさを誇ると言われています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-東根市教育委員会
|
|