山形市: 三島神社

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概要・歴史・観光・見所
三島神社(山形市)概要: 三島神社の創建は不詳ですが、慶長4年(1596)に最上義光が娘三島神社駒姫:豊臣秀次の侍女で側室候補でしたが、秀次事件に連座し処刑された。この事件により最上家は豊臣家に対して恨みを抱くようになったとも云われています。)の菩提を弔う為、天童に境内を構えていた専称寺(天童の旧地には改めて願行寺が創建された。)を山形城の城下に移した際、鎮守社「三島稲荷明神」として勧請されたのが始まりとされます。明治時代初頭に発令された神仏分離令により明治4年(1871)に専称寺から分離され現在地に遷座し三島稲荷神社に改称しました。

明治9年(1876)、山形県令として赴任してきた三島通庸は、県庁近くに自分と同じ苗字である三島を掲げる当社に痛く心を寄せ、明治12年(1879)に社殿を造営し、三嶋大社(静岡県三島市)の分霊を勧請して三島神社と社号を改め、今まで鎮座していた稲荷神社を境内社としました。拝殿は入母屋、銅板葺き、平入、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付、本殿は一間社流造、銅板葺、社殿内部には日清・日露戦争の戦勝祈願の為奉納された絵馬や算額などが掲げられています。祭神:大山祇大神、保食神(境内社、稲荷神社の祭神)。例大祭:6月2日。

三島神社は,JR山形駅の東北東2キロメートル,県立図書館の東に鎮座する。 当社の起源は,山形城主の最上義光が娘の菩提寺として天童市から移築した専称寺(真宗大谷派)の境内に祀られていた三嶋稲荷明神である。 維新後,神仏分離令によって明治四年(1871)に専称寺境内からこの地に遷座した。 明治九年(1876),初代の山形県令となった三島通庸(みしま みちつね)は,自分の姓と同じ社号の神社があることを奇縁とし,明治十二年(1879)に社殿の改築をおこなった。 また新たに静岡の三島大社から分霊を勧請して三島神社を創立し,従前の稲荷神社を境内社として三島神社の隣に祀った。 〒990-0041 山形県山形市緑町1丁目3 山形市 三島神社 2019/11/17 クリックすると大きい写真 写真向かって左に山形県立図書館(遊学館)があります。そして、その間の道路を直進すると山形東高です。 遊学館は最近までずっと山形県知事官舎でした。したがって、初代県令、三島通庸も住んでいて、そのため三島神社は三島通庸を祀ったものだと思っている人が、少ないか多いかはさておき、まあいます。 三島神社の創建は不詳ですが、慶長4年(1596)に最上義光が娘三島神社の菩提を弔う為、天童に境内を構えていた専称寺を山形城の城下に移した際、鎮守社「三島稲荷明神」として勧請されたのが始まりとされます。 明治時代初頭に発令された神仏分離令により明治4年(1871)に専称寺から分離され現在地に遷座し三島稲荷神社に改称しました。 明治9年(1876)、山形県令として赴任してきた三島通庸は、県庁近くに自分と同じ苗字である三島を掲げる当社に痛く心を寄せ、明治12年(1879)に社殿を造営し、 三嶋大社(静岡県三島市)の分霊を勧請して三島神社と社号を改め、今まで鎮座していた稲荷神社を境内社としました。 拝殿は入母屋、銅板葺き、平入、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付、本殿は一間社流造、銅板葺、社殿内部には日清・日露戦争の戦勝祈願の為奉納された絵馬や算額などが掲げられています。 山形人の敵だった薩摩藩士の地と汗の結晶と思うと、三島通庸を称えるというより、憎たらしいと思えてしまうのは、山形人の鏡餅 右手の小さいほうが専称寺から分離され現在地に遷座した三島稲荷神社 以下 山形県HPから三島通庸について引用します。 三島通庸は、1835年(天保6)薩摩藩の下級武士の長男として生まれる。幕末は精忠組の一員として、寺田屋騒動に連座するなど尊王倒幕運動に参加。戊辰戦争が起こると西郷隆盛に取り立てられ、武器弾薬や兵糧の輸送を受け持ち、補給部隊として活躍する。 戊辰戦争後は、鹿児島都城の地頭に任命され地域振興の事業を行うが、この功績が内務卿・大久保利通に認められ、明治4年に東京府参事として新政府に出仕することになる。 東京府参事では東京銀座煉瓦街建設など、都市改造計画の行政側の実質責任者として活躍する。これらの経験は、後の山形県令時代の事業を達成するのに大きく役立った。 東京府参事から教部省の教部大丞を経て、明治7年に酒田県令として赴任し、明治9年に初代山形県令となる。 慶長年間(1596〜1614)、最上十一代、山形城主の最上義光が、専弥寺に寄進した「お花山」 に、三島稲荷明神の小祠があり、里人達から五穀豊穣の氏神として崇敬されていた。 明治4年(1871)、神仏分離令により、社名を三島稲荷神社と改めこの地に遷座された。明治9年(1876)、初代山形県令として三島通庸が就任すると、この町内の官邸に住居を構えたとき、きしくも自分と同姓の神社であることを喜び、これを縁として、静岡の三島大社より分霊し、明治12年(1879)三島神社として社殿を新築し、近代国家と天下泰平の祈願所とした。 2019年1月26日(土)に山形県山形市にある初代山形県令の「三島通庸(みしまみちつね)」と縁が深い「三島神社(みしまじんじゃ)」に行ってきました。 三島通庸は山形の近代化を進めた人物として有名で、左右対称の町を建設したり、現在山形城にある旧済生館本館や三島神社近くにある旧山形師範学校を建築しました。 三島神社の創建は不明ですが、慶長4年(1596年)に当時の出羽国11代城主である最上義光が、天童に境内を構えていた専称寺(最上義光の娘の菩提寺)を山形城の城下に移した際に境内に祀られていた「三島稲荷明神」が始まりとされています。 明治4年(1871年)の神仏分離令により「三島稲荷神社」と改称し、現在地に遷座されました。 明治9年(1876年)に初代山形県令になった三島通庸は、たまたま自分と同姓の神社があったことに感激し、明治12年(1879年)に神社本殿を改築を行いました。 また新たに静岡県の三島大社から分霊を勧請し、社名を「三島神社」と改称しました。 そして三島稲荷神社は境内社として、三島神社の東側に祀られました。 ご祭神は、三島神社が大山祇命、三島稲荷神社が保食神です。 三島神社の滞在時間ですが、ゆっくり参拝した場合で約5分でした。 三島神社参拝 三島神社の入口です。 石の神明鳥居を進むと三島神社の拝殿になります。 三島神社1 拝殿手前には手水舎がありますのでしっかり心身を清めます。 三島神社5 三島大社から分霊を勧請「三島神社」 拝殿です、雪景色との調和が素敵ですね♪ 三島神社は明治時代に静岡県の三島大社から分霊が勧請されました。 額は三島通庸の孫の養子である三島義温の書です。三島神社4 拝殿の奥には立派な本殿があります。 三島神社8 起源は天童市の専称寺境内「三島稲荷神社」 拝殿東側には三島稲荷神社があります。 三島神社9 稲荷神社の特徴の朱色の鳥居が拝殿まで続いています。 三島稲荷神社は天童に境内を構えていた専称寺を山形城の城下に移した際に境内に祀られていた「三島稲荷明神」が起源とされています。 三島神社6 三島稲荷神社しっかりと参拝します。 神使である狐の姿も見えます。 三島神社7 おわりに 三島神社を参拝してみて、山形の近代化を進めた三島通庸が厚く信仰した神社で、力強いパワーとご利益がある神社だと思いました。 また静岡県の三島大社から分霊を勧請した三島神社と、元々この地にあった三島稲荷神社が合祀されているのでより一層そのように感じるのかもしれません。 境内はそれほど大きくないので是非近くを訪れた際は参拝してみてはいかがでしょうか。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(由緒・沿革)-三島神社

三島神社:写真

三島神社
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