米沢市(歴史)概要: 米沢市は古くから交通の要所で軍事的拠点になっていたところで置賜地方の中心的存在として城が築かれ城下町として発展しました。鎌倉時代は米沢市を含む置賜郡一帯は幕府の御家人大江氏の一族が地頭として入り長井氏を名乗り米沢城を築き領国経営を行いました。しかし時代が下がるにつれ次第に伊達氏の影響力を受け、天授6年(1380)に侵攻され至徳3年(1385)には時の領主だった長井広房は非業の死を遂げると、置賜郡は伊達氏の勢力圏に入ります。
その後、戦国時代に行なわれた伊達氏の家督争いだった天文の乱の後、米沢城を本拠地とし城郭の拡充や城下町の整備など行います。伊達政宗の代となり芦名を破るとさらに会津若松城(黒川城)(福島県会津若松市)に居城を移しが天正19年(1591)豊臣秀吉の奥州仕置きにより岩出山城(宮城県大崎市岩出山)に移封されます。米沢には蒲生氏郷の一族である郷安が配され、蒲生氏が宇都宮に移ると上杉氏が支配し米沢城へは直江兼続が入ります。
関が原の合戦後は西軍側に付いた上杉家は120万石から30万石に減封され本拠地を会津から米沢へ移され米沢藩を立藩、寛文4年(1664)に15万石に減らされるものの明治維新まで続きます。米沢市の町並みの大きな特徴の1つに米沢市郊外にある芳泉町や石垣町に見られる武家屋敷町が上げられます。これは大藩だった上杉領が石高が減らされても家臣を抱え込んだ為、米沢城下に収まりきれず郊外に居を構えたもので、そのこに住んだ武士達は半士半農の生活が虐げられました。
米沢市中心部は都市化が進み、江戸時代の建物や町並みは少なく文化財も明治以降のものが大部分を占めているのに対し、郊外には先程の武家屋敷が散在し、笹野観音堂(米沢市指定文化財)や羽黒神社、成島八幡神社、塩野毘沙門堂など上杉氏縁の寺院が多く当時の町づくりが現在の米沢市の基礎になった部分が見られます。
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