餐霞館遺跡(米沢市)概要: 餐霞館は米沢藩(藩庁・米沢城)9代藩主上杉鷹山が隠居した後に米沢城の三の丸に天明5年(1785)から文政5年(1822)の35年の間住んだ場所です。元藩主の住居だった事もあり敷地面積は約3000坪、部屋数は40を数える広大なもので、壁には「 なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり 」の和歌が掲げられていたそうです。案内板に掲げられた「鷹山公御隠殿餐霞館の図」によると右から御上殿、御二ノ間、御化粧ノ間、御上段、御寝間、御物置、御膳立、御二ノ間、御居間、御茶の間、御用人詰ノ間、御寝間、御小座敷、御ニノ間、御物置、御小姓詰ノ間、御上段、御呉服ノ間、御小納戸、御ニノ間、御小姓頭、御三ノ間、御掃除所、御上段、御二ノ間、御廣間、御座敷といった部屋が配されていました。上杉鷹山は天明5年(1785)に隠居し、先代藩主上杉重定の次男で養子とした治広に家督を譲りましたが、治広は鷹山に後見を要望した為、引き続き藩政を指導する立場となり餐霞館に設けた書斎「休々斎」では度々重臣達が集まり意見交換が行われました。又、治広の養子斉定を餐霞館で引き取り、寝食を共にし藩主になる為の教育を行ったとされ、鷹山の死後は斉定が事業を引き継ぎ完遂させています。餐霞館は上杉鷹山が死去すると一族の上杉駿河守が入り、明治維新後は宅邸の東南の一部が公園となります。昭和45年(1970)の鷹山公初入部から200年を記念してさらに庭園を整備し、顕彰碑が建てられました。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(城下町散策 米沢)
・ 現地案内板-米沢市
・ 現地案内板-米沢市・米沢観光協会
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