春雨庵(上山市)概要: 春雨庵は寛永6年(1629年)に沢庵禅師が紫衣事件(後水尾天皇の紫衣の問題で朝廷と幕府の意見の違いで対立した)で上山藩に配流されたときに、藩主である土岐頼行が禅師の為に草庵を寄進したものです。沢庵禅師は戦国時代末期から江戸時代初期にかけての臨済宗の高僧で、大徳寺(京都府京都市北区紫野大徳寺町)の住職を務めていましたが、紫衣事件で幕府に対して反対意見を述べた事で上山に流罪となりました。禅師は約3年間上山の草庵で過ごし「春雨庵」と名付けこよなく好んだといいます。
頼行は沢庵禅師に篤く帰依した為、厚遇され比較的楽に外出出来たとされ、上山城の本丸庭園や浄光寺の庭園、藩主別邸である松山御殿の庭園の作庭、沢庵堰の建設などを行い、さらには上山藩士の教養を深める為に詞歌や茶禅などを教えたそうです。
頼行にも政の基本となる「上中下三字の説」を説き、それに従った頼行は羽州街道や城下町の整備、検地の実施など行い良政を行いました。3年後、沢庵禅師は3代将軍徳川家光が帰依した事により江戸に召還され東海寺(東京都品川区北品川)を開山、頼行は境内に春雨庵を模した塔頭寺院を創建し土岐家歴代の菩提寺春雨庵として庇護を続けました。
現在ある建物は、昭和30年(1955)に当時庵が建てられた場所に東海寺から春雨庵の一部(長押と天井板)を譲り受け再建したもので、木造平建、寄棟、茅葺、平入、春雨庵跡は昭和28年(1953)山形県指定史跡に指定されています。又、土岐家の江戸屋敷にあった石燈籠が敷地の改修の為、縁のある上山市に寄贈されその内の1つが園内に移築されています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-上山市教育委員会
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