元禄2年(1689)5月28日(新暦7月14日)、松尾芭蕉と河合曾良は山寺立石寺を出立。馬を借りて羽州街道の天童宿を経て、再び六田宿の内蔵(六田宿の問屋の主人と思われる人物)に再開し篤くもてなされます。その後、六田宿を出立し、今日の宿泊地である大石田の高野一栄宅には午後2時頃に到着しています。当初は俳諧が予定されていましたが、先日の山寺立石寺の参拝等もあり疲労が蓄積し、やむなく会は中止となり早めに床に着いています。
5月29日(新暦7月15日)、午前中、芭蕉、曾良、高野一栄(大石田村の船問屋。本名:平右衛門)、高桑川水(大石田村の庄屋。本名:高桑加助吉直)は各自一句ずつ句を詠んで、それを終えると芭蕉は黒滝山向川寺の参拝を思い立ち2人を誘いました。しかし、曾良は疲労による体調不良にて参拝を断念に回復に専念しています。午後2時頃に帰宅し、その日の夕食は高桑川水が用意し、この日も高野一栄宅で宿泊しています。
5月30日(新暦7月16日)、朝から歌仙である「さみだれを」の製作を行い、暫くして芭蕉が散歩を行い帰宅後に選んだ句の清書を行い完成しています。
当初、大石田は単なる通過点で、ここから舟運で最上川を下ろうとしていましたが、思わぬ増水と高野一栄、高桑川水の2名が俳諧に対して余りにも熱心だった為、宿泊も3泊に及び、彼らの俳諧を指導すると共に教科書となる「さみだれを」を製作し与えています。彼らは大石田にも古くから俳諧が伝わり盛だが、一方、中央ではどんどん新しい俳諧が生まれ、自分達がこれからどの様に俳諧と向き合えばいいのか真剣に悩み、導いてくれる師匠が必要だと切々と懇願したとされます。「さみだれを」は、5月29日に上記4人で詠んだ「一巡四句」によるもので、それぞれ9句ずつ、合計36句の歌仙を巻き、主なものは、
・ さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川−芭蕉
・ 岸にほたるを繋ぐ舟杭−一栄
・ 爪ばたけいざよふ空に影待ちて−曽良
・ 里をむかひに桑のほそミち−川水
・ 最上川のほとり一栄子宅におゐて興行 芭草庵桃青書 元禄二年仲夏末
とあり、芭蕉自身もこのように地方の俳人達と交わり1つの作品として生み出された事は大変感慨深いものであり、後に「このたびの風流ここに至れり」と評している事からも「奥の細道」の道標的な出来事だったと思われます。又、ここで芭蕉が詠んだ「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」が後に改案され、「五月雨を あつめて早し 最上川」の名句へと変貌を遂げています。現在、「さみだれを」は蕉直筆の歌仙として価値の高い作品として貴重な事から昭和28年(1953)に山形県指定重要文化財に指定されています。
黒瀧山向川寺・概要: 向川寺の創建は永和3年(1377)、大徹宗令禅師により開山。大徹宗令禅師は総持寺2世峩山禅師五哲の1人に数えられる名僧で、向川寺は曹洞宗の中本山の寺格を持ち、周辺地域での曹洞宗の中心的な存在として寺運が隆盛しました。現在の山形県を中心し宮城県や秋田県などに数多くの末寺、孫寺を擁して、境内には数多くの堂宇が造営され大寺院として知られいました。しかし、江戸時代に入り度重なる火災により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し、その都度再建されるも次第に衰微しました。現在では苔むした参道や、周辺の山中に数多くの石仏、石碑、石塔などの遺物が点在し往時の繁栄が窺えます。
大石田町・概要: 大石田町は戦国時代末期に山形城(山形県山形市)の城主最上義光が最上川舟運の拠点として開発した町で、江戸時代には、その舟運の最大拠点として飛躍的に発展しました。その為、京都や大坂などから文化的な交流も盛んで現在でも町内には数多くの文化財が残され、町並みも往時を思わせる店構えや土蔵などが点在しています。特に大石田町出身の俳人土屋只狂と関係が深かった西光寺には松尾芭蕉が詠んだ「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」の句碑が明和年間(1764〜1772年)に建立され大石田町指定文化財に指定されています。
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