元禄2年(1689)6月13日(新暦7月29日)、松尾芭蕉と河合曾良は鶴岡城の城下町から舟で酒田に向かっています。その前に出羽三山の羽黒山から飛脚が着き、旅行の帳面、ゆかた、発句が届けられています。羽黒山本坊に訪れた際、それらが破れているのが解り会覚阿闍梨の心遣いで手配してくれたと思われます。午前中は雨が降っていた為に舟が止まり、午後の2時頃(申ノ刻)になり曇りになった為、改めて酒田に向かい夕方になってやっと到着、宿所となる伊東玄順邸に使いを出すものの留守だったので、仕方なく旅人宿に泊り明朝逢っています。
伊東玄順・概要: 俳号は潜淵庵不玉。職業は医師。慶安元年(1648)に酒田で生まれ、寛文10年(1670)に京都で医療を学び、天和3年(1683)に大淀三千風(伊勢国松阪出身、松島に心を奪われ、以降、仙台に住み1日に3千句詠んだ事から三千風と呼ばれるようになり、後年に諸国遍歴を行っています。)が酒田を訪れた際に門人となり俳諧を学びました。不玉宅跡は昭和38年(1963)に酒田市指定史跡に指定されています。
6月14日(新暦7月30日)、2人は寺島彦助邸に招かれ、そこで俳諧が行われ、夜になって伊東玄順邸に戻り宿泊しています。ここで一句・・・
・ 暑き日を 海に入れたり 最上川
この句は6月13日に鶴岡から酒田に入った時の情景で、最上川を舟で下り、酒田には夕時に着いている事から、芭蕉も実際に最上川越しに日本海に沈む夕陽を眺めていたのかも知れません。句の意味は。暑かった一日も、最上川によって日本海に流され終わろうとしている。といった意味でしょうか。初句は寺島彦助邸で詠まれた挨拶吟で「涼しさや 海に入りたる 最上川」、その後、「奥の細道」を編集する際に「涼しさや」⇒「暑き日を」と改変され「暑き日を 海に入れたり 最上川」の句になりました。
酒田湊・概要: 古くから湊町として知られ、奥州平泉(岩手県平泉町)藤原秀衡の妹「徳尼公」が藤原家の没落に伴い当地に下向した際、「徳尼公」に従った三十六騎が酒田の開発に尽力し全国的にも知られる存在となりました。三十六騎はその後、多少入れ替えがあるものの、酒田の有力者として絶対的な地位となり半自治権を確立するようになり、江戸時代に入ると最上川舟運の拠点と、北前舟の寄港地として飛躍的に発展しました。庄内藩でも酒田湊を領内の経済的な中心地として重要視し本城である鶴ヶ岡城の支城である亀ヶ岡城を設け、城下町としても機能しています。酒田湊では三十六騎の後裔を語る三十六人衆が豪商として名を馳せ、本間家などは庄内藩主酒井家よりも裕福だったとされ「本間様には及びもつかぬが、せめてなりたや殿様に」と巷では歌われたそうです。度重なる火災の為、当時の町並みは失われつつありますが、随所に当時の繁栄を窺える史跡が点在しています。
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