吹浦〜三崎峠(山形県遊佐町)

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奥の細道・山形県編

元禄2年(1689)6月15日(新暦7月31日)、松尾芭蕉と河合曾良は酒田を出立し象潟(秋田県にかほ市)に向かいます。朝から小雨が降り続いていましたが、吹浦に入ると急に大雨となり、急遽吹浦で宿泊する事になりました。明日、番所を越える為、夕方になり左吉の添え状が届き、その手続きを終えました。宿所は記録が無く不明。

吹浦・概要: 吹浦は羽州浜街道の宿場町であると同時に鳥海山大物忌神社吹浦口之宮の門前町として発展しました。鳥海山大物忌神社は鳥海山を御神体とする神社で、延喜式神名帳では名神大社として記載され格式の上では出羽国一之宮でもあり、本来ならば出羽三山よりも高い格付けにも関わらず、修験の広がりでは後塵を拝しています。吹浦で宿泊しているにも関わらず、「奥の細道」や「曾良日記」では鳥海山大物忌神社について記載が無く参拝に訪れたのかも不詳。

吹浦:町並み 吹浦:町並み 吹浦:鳥海山大物忌神社吹浦口之宮 吹浦:十六羅漢

6月16日(新暦8月1日)、吹浦出立、羽州浜街道にある女鹿宿で宿場内にあった庄内藩の番所で手続きを済まし、当時、天領だった塩越領に入っています(周辺の支配領域は煩雑で、天領と本城藩、矢島藩の領内が複雑に入り組んでいました)。女鹿宿は庄内藩の日本海側最北の集落で、人物改めや荷物改めを行う番所が設けられ、多分、芭蕉一行も喉を潤したであろう「神泉の水」という名水が街道沿いに湧き出ています。鳥海山からの伏流水が女鹿宿の中央を付近から湧き出し、長大な水槽は6つの敷居により分けられ上段から飲料、食べ物の冷却、食べ物の洗浄、洗濯、洗物、汚物の洗浄という感じで用途毎に分けられていました。戊辰戦争の戦火があった為、古い建物は少ないですが、落ち着いた町並みが続いています。

女鹿:町並み・鳥瞰 女鹿:町並み 女鹿:神泉の水 女鹿:鳥海山松葉寺

三崎峠・有耶無耶関・概要: 女鹿宿を越えると三崎峠に入ります。基本的に羽州浜街道は日本海の海岸の砂場を街道筋としている為に平場が多く、三崎峠は最大の難所とされました。曾良日記では「是ヨリ難所。馬足不通。」と記載されている事からも相当な難所だったと思われます。三崎峠は現在の秋田県と山形県の県境に位置し古くから「有耶無耶関」があった場所とも云われています。伝承にによると、昔、三崎峠周辺に「手長足長」と呼ばれる妖怪が巣食い、度々を食していた事からそれを案じて八咫烏と思われる三本足の烏が「手長足長」が居る時は「有耶」、留守の時は「無耶」と鳴き、旅人はその声を聞き分け三崎峠を通過した事から「有耶無耶関」と呼ばれるようになったと伝えられています。時代が下がると、慈覚大師円仁が「手長足長」を諭し、人では無くタブの実を食するのを勧め、自らタブの苗木を植えると三崎峠一帯タブの木で覆われれるようになると「手長足長」も人を食べる事を止めたと伝えられています。慈覚大師円仁が三崎峠に霊場を開くと数多くの支院、宿坊などが軒を連ね境内には「手長足長」で被害にあった人達を供養する為に五輪塔が建立されたそうです。「有耶無耶関」の正確な場所は不詳で、三崎峠の山形県側と、秋田県側の関集落にあった説があり曾良日記には「塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是ヨリ六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。」と記載されている事から秋田県側の関集落説を有力視していたようです。芭蕉の「奥の細道」の象潟を評していた場面で「・・・南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て・・・」とあるので、少なくとも2人は「有耶無耶関」という認識はしていたようですが、「歌枕」の地としては感動が少なかったようで特別な行動を起していません。「有耶無耶関」には山形県と宮城県を結ぶ笹谷街道の県境近くにも存在し、そちらの方が「歌枕」の地と思っていたのかも知れません。三崎峠には現在も羽州浜街道の石畳や一里塚、大師堂(三崎神社)などの遺構が残され、往時の雰囲気が色濃く残されています。

三崎峠:出入口 三崎峠:石畳 三崎峠:一里塚 三崎峠:大師堂(三崎神社)

奥の細道の足跡一覧

温海
左
大山
左
酒田
左
象潟
左
吹浦
左
酒田
左
鶴岡
左
出羽三山
左
最上川
左
新庄
左
大石田
左
山寺立石寺
左
尾花沢
左
封人の家
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