象潟(秋田県にかほ市)

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奥の細道・秋田県編

元禄2年(1689)6月16日(新暦8月1日)、松尾芭蕉と河合曾良は三崎峠を越え、秋田県側の小砂川宿、関宿を経て象潟に到着。途中で大雨で体が濡れた為、船宿で雨宿りをしつつ象潟には昼頃となっています。象潟では能登屋(佐々木孫左衛門邸)を訪ね、着替えや饂飩を食べるなど一休みし、此処を宿所にしようとしましたが、女性の先客がいた事から(翌日、熊野神社の例祭があった事から、その関係で女性が泊まっていたと思われます)、近くの向屋(佐々木左衛門治郎邸)を宿所としました。天気の具合が気になった為、象潟橋(欄干橋)まできて様子見に行き、その後、当地の名主である今野又左衛門の弟、今野加兵衛(俳号:玉芳)が訪ねてきています。

6月17日(新暦8月2日)、2人は朝食後に早速、蚶満寺に参拝し、後から合流した弥三郎低耳(岐阜の商人)と共に象潟の所々を見て周り、帰り際に神輿渡御に遭遇した事から、熊野神社の例祭を見に行き、神楽奉納などを見学しています。夕飯後は、舟で潟を巡り、その際、昨日宿所に訪ねてきた今野加兵衛が御茶や酒、菓子などを差し入れがあり、十分楽しみ夜になって宿所に戻っています。すると今野又左衛門が来訪し象潟の歴史や由来等を語り、芭蕉も興味深く耳を傾けています。能登屋(佐々木孫左衛門邸)宿泊。

象潟:町並み 象潟:町並み 象潟:鳥海山 象潟:熊野神社

芭蕉は「奥の細道」で松島と象潟の両方を訪れるのに大変楽しみだったとされ、「奥の細道」では次ぎのように象潟を評しています。「江山水陸の風光、数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先、能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上こぐとよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」とあり象潟を絶賛してます。ここで一句・・・

・ 象潟や 雨に西施が ねぶの花

句の意味は。象潟の浜辺に咲いている白く可憐な「ねぶの花」が雨で濡れている様は、中国の絶世の美女と言われた「西施」が目蓋を閉じ涙を流しているような美しさが感じられる。といった感じでしょうか。さらに、もう一句・・・

・ 汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し

句の意味は。象潟(汐越)の浅瀬に1羽の鶴が優雅に降り立った。脛が波により濡れている様は、見ているこちらまで涼しくしてくれるようだ。といった感じでしょうか。

象潟(九十九島)・概要: 象潟は古くから景勝の地として知られ、元々は鳥海山の火山活動により、「象潟岩屑なだれ」と呼ばれる山崩れが発生し、その土砂や溶岩が日本海に達し、潮の満ち引きにより大小様々な島が形成され「九十九島」と称されました。特に鳥海山の優美な山容と海面に浮かぶ島々、そこに生える青々とした松の枝ぶりが「東の松島 西の象潟」と呼ばれる程、全国的にも知られる存在となりました。その景観から多くの文人墨客が象潟を訪れ、様々な和歌や俳句、絵画などの作品の題材にもなりました。文化元年(1804)の象潟地震により地面が2m以上も隆起した為、海面に浮かぶ島々も陸地化し風光明媚な景観も失われました。さらに当時の領主である本荘藩主六郷氏は新田開発を推し進め、隆起前は島だった丘陵を次々破壊した為、当時の蚶満寺の住職全栄覚林が藩主に直訴し、懸命な説得と朝廷をも巻き込んだ保存運動を展開し破壊が最小限に食い留めました。この行為は日本初の景観保存運動とも云われ、現在の象潟の景観が残される原因となりました。昭和9年(1934)に「象潟」として国指定天然記念物に指定されています。

象潟:九十九島 象潟:九十九島 象潟:九十九島 象潟:九十九島

蚶満寺・概要: 蚶満寺の創建は仁寿3年(853)、慈覚大師円仁(平安時代の高僧、天台座主)が象潟の景観の美しさと神功皇后の由来から霊地と悟り開山したのが始まりとされます。正嘉元年(1257)、北条時頼(最明寺入道:鎌倉幕府5代執権)が当地を訪れると、蚶満寺を再興して寺領を寄進するなど保護しています。天正15年(1587)、又は文禄元年(1592)に地元の有力者である金又左衛門が尽力し栄林示幸(光禅寺9世:秋田県由利本荘市松ヶ崎)を招いて曹洞宗に改宗開山しています(開山者は光禅寺を開山した直翁呈機)。象潟を訪れた文人墨客も同時に蚶満寺も訪れ「芭蕉句碑」や「九十九島の碑」がにかほ市指定史跡に指定されているをはじめ数多くの文化財を所有しています。

象潟:蚶満寺・山門 象潟:蚶満寺・参道 象潟:蚶満寺・本堂 象潟:蚶満寺・庭園

6月18日(新暦8月3日)、朝、今日は快晴で2人は再度、象潟橋(欄干橋)で鳥海山を眺め、朝食後に象潟を舟で出立、良い風が吹き夕方に酒田に到着し伊東玄順邸で宿泊しています。


奥の細道の足跡一覧

温海
左
大山
左
酒田
左
象潟
左
吹浦
左
酒田
左
鶴岡
左
出羽三山
左
最上川
左
新庄
左
大石田
左
山寺立石寺
左
尾花沢
左
封人の家
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