酒田湊(復路)

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奥の細道・山形県編

元禄2年(1689)6月18日(新暦8月3日)、松尾芭蕉と河合曾良は象潟を舟で出立し夕方に酒田湊に到着、伊東玄順(不玉)邸で宿泊しています。

6月19日(新暦8月4日)、寺嶋彦助が江戸に行く事になった為、芭蕉は杉風(杉山杉風、幕府の御用魚屋、豪商、芭蕉の援助者の1人)と鳴海寂照(下里知足、江戸時代前期の俳人、尾張国鳴海村の庄屋)、越人(越智越人、尾張蕉門の重鎮)宛の手紙、曾良は杉風と深川長政宛ての手紙を託しています。その後、伊東玄順(不玉)邸で芭蕉、曽良、不玉の3人による歌仙が行われています。ここで一句・・・

・ あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ

この句は6月18日に象潟から吹浦沖の船上で見た夕方の風景と思われます。当日は天気が良く、温海山(標高:736m、旧西田川郡温海町:現在の鶴岡市湯温海。中世は修験僧の修行の場となった信仰の山、麓には温海温泉があり熊野神社が鎮座しています。)の方角からいい風が吹いていたのかも知れません。一般的には酒田の磯、最上川の落口にある歌枕の地、「袖の浦」で詠んだとされますが、個人的には最上川河口からは温海山が象徴的には見えないように感じます。海上のある程度沖合いから陸地を見ると海岸線が綺麗に見え空間的な広がりがあり句と同様な印象を受けると思われます。句の意味は地名や名称が洒落に使われ、本来、熱を表す海山から、浦にきつけた結果、気持ちの良い夕涼みになった。といった意味かも知れません。

6月20日(新暦8月5日)は引き続き伊東玄順(不玉)邸で芭蕉、曽良、不玉の3人による歌仙が行われています。

6月21日(新暦8月6日)は引き続き伊東玄順(不玉)邸で芭蕉、曽良、不玉の3人による歌仙が行われ完成しています。

6月22日(新暦8月7日)の詳細は不詳。

6月23日(新暦8月8日)に近江屋三郎兵衛邸に夕涼み会に招かれ即興で歌仙が行われています。

近江屋は酒田36人衆(徳尼公に従った36騎の後裔、この36家が酒田を開発した為、大きな権力と富を掌握した)の1人で三郎兵衛(嘉右衛門)は襲名前の名前、豪商である当時に俳人としても知られ俳名は玉志、芭蕉一行が明日酒田を出立する話を聞いて招いたと思われます。ここで一句・・・

・ 初まくわ 四つにや断たん 輪に切らん

句の意味は。大好物の真桑、しかも初物、十文字に切って食べようか?輪切りにして食べようか?悩むなー。といった意味かも知れません。この句は芭蕉直筆の懐紙として近江屋家に残されていましたが、文化年間(1804〜1818年)に酒田に去る際に同じく酒田の豪商で36人衆の1人本間家に譲られました。現在は本間美術館として展示保存され「玉志亭唱和懐紙」として山形県指定重要文化財に指定されています。

6月24日(新暦8月9日)に酒田を出立し大山に向っています。


奥の細道の足跡一覧

温海
左
大山
左
酒田
左
象潟
左
吹浦
左
酒田
左
鶴岡
左
出羽三山
左
最上川
左
新庄
左
大石田
左
山寺立石寺
左
尾花沢
左
封人の家
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