元禄2年(1689)6月10日(新暦7月26日)、松尾芭蕉と河合曾良は出羽三山の最終日を迎え、別れを惜しむかのように飯道寺正行坊が宿所に来られました。昼前頃に挨拶の為に本坊に立ち寄ると、昼食として蕎切や酒、お茶などの接待を受け、出立は午後2時前頃、すると宿所である南谷の別院で世話になった円入も本坊まで迎えに来て、一緒に大杉根(爺杉:国指定天然記念物や羽黒山五重塔:国宝がある所)の所まで見送ってくれました。秡川で手を洗い身を清めたとことで、再び下山して手向(鶴岡市羽黒町手向)の宿場街にある近藤(図司)佐吉(俳名:呂丸・庄内羽黒俳壇の中心的な存在)宅に寄り、そこで芭蕉だけが馬を借り、光堂(黄金堂:国指定重要文化財)まで釣雪(観修坊、南谷の別院の先客で、少なくと曾良とは旧知の間柄だったようで、再開した際は御互い懐かしみ涙したと記載されています。)が見送ってくれました。佐吉は鶴ヶ岡城の城下町まで同行して午後4時前後(申ノ刻)に次ぎの宿所となる長山五良右衛門宅に到着。御粥を食べて後に仮眠をして夜に歌仙を1巡だけ行い慌しい1日を終えています。
6月11日(新暦7月27日)、2人は朝から歌仙を行いましたが、昼頃に芭蕉が出羽三山での疲れからか体調を崩し一時中断、午後になり再開され曽良・重行(長山五良右衛門)・呂丸(佐吉)と共に歌仙をまいています。ここで一句・・・
・ めずらしや 山をいで羽の 初茄子
句の意味は。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を降りて、疲れきっている私には、この初めて食する民田茄子が、本当においしく感じられます。といった意味かと思います。長山五良右衛門に対しての挨拶吟で、体調が優れない芭蕉にとって、庄内地方でしか見られない地元食材である「民田茄子」が珍しいと同時に、疲れた体にはとても合う食材だったのかも知れません。
6月12日(新暦7月28日)、一日中歌仙を行い歌仙「めづらしや」が完成しています。
・ めづらしや山をいで羽の初茄子−翁
・ 蝉に車の音添る井戸−重行
・ 絹機の暮閙しう梭打て−曽良
・ 閏弥生もすゑの三ケ月−露丸
・ 吾顔に 散かゝりたる 梨の花−重行
・ 銘を胡蝶と付しさかづき−翁
・ 山端のきえかへり行帆かけ舟−露丸
・ よもぎなき里は心とまらず−曽良
長山五良右衛門・概要: 長山五良右衛門は庄内藩酒井家の家臣で近藤(図司)佐吉とは縁者とされます。鶴ヶ岡城の城下町での俳壇では中心的な人物で、元禄13年(1700)に他所に移されますが現在でも旧屋敷跡周辺は長山小路の愛称で親しまれています。歌仙「めづらしや」では「蝉に車の音添る井戸」、「吾顔に 散かゝりたる 梨の花」、「弓のちからをいのる石の戸」、「此秋も門の板橋萠れけり」、「婿入の花見る馬に打群て」、「奈良の都に豆腐始」、「千日の庵を結小松原」、「こけて露けきをミなへし花」、「尼衣男にまさる心にて」を残しています。芭蕉は長山重行宅に3泊しています。
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