大山(山形県鶴岡市)

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奥の細道・山形県編

元禄2年(1689)6月24日(新暦8月9日)松尾芭蕉と河合曾良は酒田を出立し大山に向っています。不玉父子や徳左、四良右、不白、近江屋三郎兵衛、加賀屋藤右・宮部弥三郎(低耳)等が袖ノ浦の向かい側にある船橋迄見送ってくれて、午後2時頃に大山に着き弥三郎の添え状を携え丸や義左衛門邸で宿泊しています(丸や義左衛門についてはどのような人物かは不詳です。)。

酒田から大山(鶴岡市)までの経路は不詳で、私は漠然と羽州浜街道を単純に南下していたと思っていましたが、船橋から一端、日本海に出て加茂港から大山に入った説や、鶴岡を経由して入った説などもあるそうです。個人的には曾良の俳諧書留の「象潟」には曾良が詠った「海川や 藍風わかる 袖の浦」が記載され翌日の日記には大山と酒田の街道沿いにある浜中宿の距離の説明がある事からも袖の浦を経由して羽州浜街道を利用したのが無難と思われますがどうでしょうか?

大山:町並み 大山:町並み 大山:町並み 大山:町並み
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大山・概要: 大山は古くから交通の要衝として重要視された地域で、戦国時代には庄内地方を掌握した武藤氏が大宝寺城(鶴ヶ岡城)から尾浦城に居城を移すと、文字通り庄内地方の中心的な存在となりました。武藤氏が没落後は上杉家家臣下秀久が尾浦城の城主となり引き続き当地域の中心を維持していましたが、慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍が敗れた事を受け、上杉軍は撤退し慶長6年(1601)以降は最上領となります。下秀久も当然、上杉家の家臣として最上領に侵攻し、最上側の谷地城を奪い取ると、谷地城を拠点として抵抗を続けていましたが、上杉軍が撤退した事から裏切られたと感じ、今度は最上家の家臣となり庄内地方の侵攻に助力し、結果的に下秀久には尾浦城と1万2千石分の領地が安堵されます。ただし、今度は大宝寺城が庄内地方の中心となり、鶴ヶ岡城に改称され城の拡張や城下町の整備が精力的に行われ大山は重要拠点の1つという立場となっています。慶長19年(1614)、下秀久の跡を継いだ秀実が暗殺されると山形城の城主最上義光の6男大山光隆が2万7千石で尾浦城に入りますが、元和8年(1622)の最上騒動に連座し改易となり、新たに領主となった酒井家も居城を鶴ヶ岡城に定めた事で大山も大きな発展は見られませんでした。しかし、拠点としての重要性は変わらず正保4年(1647)には初代庄内藩の藩主酒井忠勝の7男忠解が大山周辺の新田分1万石が与えられ大山藩を立藩、藩庁が設けられました。大山藩は忠解の1代のみで寛文8年(1668)には廃藩となりましたが、その後も幕府の代官所の設置や羽州浜街道の宿場町、加茂港と鶴ヶ岡を結ぶ街道の拠点として発展しました。又、数多くの醸造業が創業された事で大型な町屋建築が軒を連ね、現在でも良好な町並みが残されています。


奥の細道の足跡一覧

温海
左
大山
左
酒田
左
象潟
左
吹浦
左
酒田
左
鶴岡
左
出羽三山
左
最上川
左
新庄
左
大石田
左
山寺立石寺
左
尾花沢
左
封人の家
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