川船役所(大石田町)概要: 大石田は最上川舟運の内陸部最大の拠点の1つとされ、江戸時代当初は新庄藩の所領でしたが、新庄藩主戸沢家の親戚筋で徳川家の重臣だった山形藩主鳥居家から圧力により山形藩と領地交換させられ、寛永13年(1636)鳥居家が改易になると幕府の直轄地となりました(尾花沢代官の管轄)。寛政4年(1792)に川船役所が設けられ、尾花沢代官所から1名が派遣され地元の役人が2名が補佐役として詰め、舟運支配の強化を強めました。役所の建設費は幕府から一部与えられえましたが、大部分は船持によって賄われ、約1年間かけて完成に至りました。
さらに、嘉永5年(1852)には川船方役所の手代常世田美和助の発願により稲荷神が勧請され「船守稲荷神社」が創建、役所と最上川舟運の守護神として篤く信仰されるようになりました。大石田河岸の最盛期には酒田船250隻、大石田船290隻を数え、年間には24万俵の米俵が取引され、500隻の船が毎日出入りしていたとされます。明治5年(1872)に川船役所が廃止された後は護岸整備などのその遺構は見ることは出来ませんが、堤防の上部に塀を設け、付属する建物を和風にして当時雰囲気を再現しようとしてます。
|