亀岡文殊堂

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概要・歴史・観光・見所

亀岡文殊堂(大聖寺)概要: 亀岡文殊堂は山形県東置賜郡高畠町大字亀岡に境内を構えています。亀岡文殊堂(大聖寺)の創建は大同2年(807)に徳一上人が開山したと伝えられています。

徳一上人はこの地を中国の五台山へ例え学問の神、文殊菩薩を勧請し文殊堂を建立しました。亀岡文殊は、切戸文殊(智恩寺:京都府宮津市天橋立)、安倍文殊とともに日本三文殊の1つに数えられ、多くの人達が入学、入社試験の際には合格祈願として参拝されています。

又、伊達政宗の生母である義姫(山形城の城主最上義光の妹)が懐妊祈願に訪れた場所としても有名で、それが縁で政宗は天正19年(1591)に古鐘を奉納しています。

伝承によると義姫は永禄8年(1565)に伊達輝宗の正室に迎え入れられ、その後、亀岡文殊堂の長海上人に懐妊祈願の依頼を行いました。長海上人が湯殿山で懐妊祈願を行い幣束を御神体(湯殿山の御神体から湧き出る温泉)浸し義姫に届けると、ある晩、湯殿大神の化身と思われる老僧が義姫の霊夢に出現し「義姫の胎内に宿を借りたい」との御告げを受けました。輝宗と相談の上その願いを受け入れると、不思議と懐妊した事から「幣束」に因み「梵天丸(政宗の幼名)」と名付けたそうです。

亀岡文殊堂の古鐘は鎌倉時代後期の永仁4年(1296)に藤原正頼が鋳造したもので、長く伊達家の菩提寺であった資福寺にありましたが、天正19年(1591)に政宗が米沢城から岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封になった際、資福寺も随行した為、亀岡文殊堂に奉納されたと伝えられています。

亀岡文殊堂の別当だった大聖寺は天皇の祈願所でもあり5代将軍徳川綱吉から14代将軍徳川家茂まで10代に渡り100石の朱印状を受けるなどの名刹でした。

明治時代に神仏分離令と廃仏毀釈運動により、仏教色を廃した町内に鎮座する安久津八幡神社から一部の仏像が遷されています。

置賜三十三観音霊場番外札所(札所本尊:文殊菩薩。御詠歌:世を照らす 仏の誓い ありければ まだ灯火も 消えぬなりけり)。宗派:真言宗智山派。本尊(大聖寺):大日如来。

亀岡文殊堂の境内: 鐘楼堂は享保15年(1730)に待定坊が建立された古建築で入母屋、銅板葺、袴腰付、組物や彫刻など見所が多く、梵鐘と共に内部には観音像や十王像、大黒天像などが安置されています。

観音堂は入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、正面3間軒唐破風向拝付、向拝木鼻には獅子、象、欄間には中国故事、軒下4隅には力士像など多くの彫刻が施され堂内には木造阿弥陀如来立像や西国三十三観音像、木造弘法大師座像が安置されています。

亀岡文殊堂は大正3年(1914)に伊東忠太が設計した建物で入母屋、銅板葺、平入、正面千鳥破風、正面3間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造、板張、弁柄色塗り、堂内には本尊である文殊菩薩騎獅子像(秘仏)が安置されています。

亀岡文殊堂の文化財: 江戸時代には上杉藩家老の直江兼続が詠会を開き前田慶次などが100首の歌を詠み奉納され「亀岡文殊堂奉納詩歌百首(縦41.5cm、横29.5cm、冊子装、短冊、紙本着色)」として平成12年(2000)に高畠町指定文化財に指定されています。

寺宝の木造聖観音立像は鎌倉時代の作、檜材(?)、寄木造、漆箔、像高186.0cm、昭和37年(1962)に山形県指定有形文化財に指定されています。寺宝である「大永の制札」は板本墨書、箱上には大永2年7月19日の日付が記され箱の縦46.5cm、横36.7cm、高さ4.5cm、平成12年(2000)に高畠町指定文化財に指定されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-高畠町観光協会
・ 現地案内板(亀岡文殊略縁起)-大聖寺

亀岡文殊堂:境内・参道・写真

仁王門
[ 付近地図:山形県東置賜郡高畠町 ]・[ 高畠町・歴史・観光 ]
参道 鐘楼堂 観音堂 文殊堂
大聖寺 境内 参道 観音堂


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