高畠町: 資福寺跡

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概要・歴史・観光・見所
資福寺跡(高畠町)概要: 慈雲山資福寺の創建は弘安年間(1278〜1287年)、資福寺跡(高畠町)鎌倉幕府の御家人で出羽長井荘(現在の山形県高畠町)の領主である長井時秀が紹規和尚(鎌倉建長寺の僧)を招き大休禅師(温州:現在の中国浙江省、出身の臨済宗の高僧)を開山としたのが始まりと伝えられています。長井氏は鎌倉時代の御家人で幕府滅亡後も足利家から篤く信任された事で長く当地を支配し、その長井氏の帰依寺として庇護され資福寺の寺運は隆盛しました。最盛期には関東十刹に数えられるなど東北でも有力な学問寺として名を馳せ鉄庵道生、無涯仁浩などの名僧を輩出し、境内も重の堀約200m四方の規模を誇りました。至徳2年(1385)、伊達家の侵攻により長井道広が破れた事で長井氏は衰退し、新たな領主となった伊達家も引き続き資福寺を庇護した事で寺運も隆盛しました。

元亀3年(1572)、伊達輝宗は名僧として知られた虎哉宗乙和尚を召還し嫡男である梵天丸(後の伊達政宗)の教育を託しています。天正19年(1591)、豊臣秀吉による奥州仕置きにより伊達政宗は会津若松城(福島県会津若松市)から米沢城に移され、さらに葛西大崎一揆の不手際により岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封となり資福寺もそれに伴い境内を移しています。政宗が仙台に本拠を移すと資福寺も仙台城の城下の北山に移り北山五山として篤く庇護されています。現在、資福寺跡には伊達政宗(儀山:伊達家9代)や紀氏(伊達家9代伊達政宗の室、室町幕府第3代将軍足利義満の生母の妹)、伊達輝宗(伊達家16代)、遠藤基信(伊達輝宗に殉死)の墓碑が残されています。又、資福寺が当地を離れた際、永仁4年(1296)に鋳造された梵鐘が亀岡文殊堂に奉納されています。

資福寺跡:写真

資福寺跡
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資福寺跡 資福寺跡 資福寺跡 資福寺跡
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