慈恩寺(茅葺屋根)

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慈恩寺

慈恩寺(茅葺屋根:本堂)
慈恩寺概要: 慈恩寺山形県寒河江市)は奈良時代に創建して以来、出羽国内の仏教界で大きな影響力を持った大寺院(最盛期は3院48坊、現在は宝蔵院、華蔵院、最上院の3院17坊)で、慈恩寺の境内周辺には現在でも当時の遺構が数多く残され、古建築物群(本堂:国指定重要文化財・山門:山形県指定文化財・三重塔:山形県指定文化財・宝蔵院表門:山形県指定文化財・熊野神社本殿:山形県指定文化財)だけでなく境内全域が大寺院の持つ空間構成が判る大変貴重な存在で国指定史跡に指定されています。

平安時代になると仏教と神道が癒合する神仏習合という形式が全国的に発生し、慈恩寺も多分に漏れず神仏習合し北方の結界の守護として白山権現、南方の結界守護として鹿島神社、東方の結界守護として折居権現、西方の結界守護として八面大荒神が配されました。明治時代以降は神仏分離政策が採られた為にそれぞれが独立していましたが、当時は神仏が一体として信仰されていました。

中世に入ると、慈恩寺自ら武装して寺領を維持する事が求められ境内の周辺には田沢要害や肥前楯、尾山楯、ゴロビツ楯など防衛施設が設けられ、数多くの僧兵が存在しました。全国的にも境内を要塞化する大寺院が数多く見られ、慈恩寺もそのような傾向にあったと思われます。比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)や北陸地方の一向一揆の拠点となった寺院などが顕著ですが、篤い信仰心から成る一大勢力は諸大名も無視出来ない程に脅威な存在でした。

又、急峻な山岳を修行場として信仰する修験僧が発生し、慈恩寺では当初、出羽三山の一翼を担った葉山修験の拠点となり、寛永4年(1627)からは葉山修験とは離れ、個別に境内から北方の山を修行場と定め厳しい修行が行われました。しかし、明治時代になると修験道は信仰内容が低俗で日本の近代化に害があるとして廃止令が発令され大きく衰退する要因となっています。

慈恩寺の本堂は江戸時代初期の元和2年(1616)に山形藩(藩庁:山形城)2代藩主最上家親が再建を着手し、元和4年(1618)の3代藩主最上家信の代に完成した建物で、木造平屋建て、入母屋、茅葺屋根、平入、桁行7間、梁間5間、内部は内陣と外陣で構成され、その仕切りは蔀戸、外陣天井は板天井、内陣は格天井、内陣には須弥壇が設けられ本尊が安置されています。慈恩寺の本堂は江戸時代初期の大型寺院本堂建築の遺構として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

山形県の茅葺屋根建築
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