慈恩寺:歴史的建築物

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本堂本堂
慈恩寺本堂は江戸時代初期の元和4年に(1618)に山形藩3代藩主最上家第13代当主最上義俊の寄進によるもので、入母屋、茅葺、平入、桁行7間、梁間5間、正面1間向拝付、国指定重要文化財に指定されています。
三重塔三重塔
慈恩寺三重塔は江戸時代初期の慶長13年(1608)に山形県初代藩主最上家11代当主最上義光が寄進しています。現在の三重塔は文政13年(1830)に布川文五郎が手掛けたもので山形県指定文化財に指定されています。
山門山門
慈恩寺仁王門は江戸時代中期元文元年(1736)に再建されたもので、入母屋、銅板、三間一戸、八脚楼門、桁行3間(10.06m)、梁間2間(5.51m)、内部に仁王像が安置されています。山形県指定文化財に指定されています。
鐘楼鐘楼
慈恩寺鐘楼は江戸時代初期の天和3年(1683)に造営されたもので、切妻、茅葺、桁行9.8尺、梁間9.8尺、外壁と基礎が無く4隅の柱が礎石に直接建てこまれています。昭和63年に寒河江市指定文化財に指定されています。
阿弥陀堂阿弥陀堂
慈恩寺阿弥陀堂は江戸時代中期の元禄6年(1693)に造営されたもので、宝形造、銅板葺、三間堂、正面中間桟空戸、正面1間向拝付、内部には本尊である阿弥陀尿来像と前佛である宝冠ノ弥陀像が安置。寒河江市指定文化財。
大師堂大師堂
慈恩寺大師堂は江戸時代中期の延享3年(1746)に造営されたもので、宝形造、銅板葺、三間堂、桁行19尺、梁間19尺、正面1間向拝付、内部には本尊である天台智者大師が安置されています。寒河江市指定文化財。
釈迦堂釈迦堂
慈恩寺釈迦堂は江戸時代中期の元禄8年(1695)に造営されたもので、宝形造、銅板葺、三間堂、桁行16.35尺、梁間16.35尺、正面1間向拝付、内部には本尊である釈迦如来が安置されています。寒河江市指定文化財。
薬師堂薬師堂
慈恩寺は江戸時代中期の元禄6年(1693)に造営されたもので、桁行18.55尺、梁間18.55尺、内部には本尊である薬師如来像、脇侍である日光月光菩薩、十二神将が安置されています。寒河江市指定文化財。
慈恩寺
慈恩寺【慈恩寺・概要】慈恩寺山形県寒河江市)は平安時代の高僧として知られた行基菩薩が神亀元年(734)に全国の霊地を求めての巡錫の折に当地を訪れた際、まさしく求めていた霊地だった事から、早速、聖武天皇に申し上げ、その勅命により天平18年(746)に印度出身の高僧婆羅門僧正が開山しました。平安時代後期には奥州藤原氏の庇護となり多くの堂宇が造営され大寺院として寺観が整えられました。当時の出羽三山は羽黒山、月山、葉山で構成され、慈恩寺は葉山修験と強く結びつき、葉山山頂は奥之院として信仰の対象になっていましたが、時代が下がると関係を絶った為、葉山修験が大きく衰微し、何時の間にか羽黒山が出羽三山の一翼を担うようになっています。慈恩寺は中世以降は領主である大井氏やその一族、後裔により庇護され大きく繁栄しますが、戦国時代に大井氏は没落した為、衰微しました。その後の領主となった最上家も懐柔策により庇護するようになり、最上義光は三重塔、は最上義俊は本堂を造営しています。最上家が改易になると幕府から庇護され、寺領2千8百12石を安堵されています。
慈恩寺の境内には古建築が多く現存し、寺宝も地方の寺院としては異例な程多く所有し、木造阿弥陀如来坐像(1躯、平安時代)、木造騎獅文殊菩薩及脇侍像(4躯、平安時代)、木造騎象普賢菩薩及十羅刹女像(5躯、平安時代)、木造弥勒菩薩及諸尊像(5躯、平安時代・本堂宮殿安置・附弥勒菩薩像像内納入品)、木造十二神将立像(8躯・薬師堂安置、鎌倉時代・附木造十二神将立像(4躯:辰、午、未、申神、江戸時代))、木造薬師如来及両脇侍像(3躯、延慶3年)は国指定重要文化財に指定されています。

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