 | 根本中堂 |
・根本中堂は山寺立石寺の中心的な宗教施設です。現在の建物は南北朝時代の正平12年(1357)に斯波兼頼(最上家の祖)によって創建されたもので、内部に慈覚大師作とされる薬師如来坐像などが安置。国指定重要文化財。
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 | 常行念仏堂 |
・常行念仏堂は慈覚大師円仁が中国から伝えた五台山念仏三昧法を行う為に設けられた宗教施設で山寺立石寺の修行道場です。現在の常行念仏堂は元禄4年(1691)に現在に再建された当時の建物で宝形造、三間堂。
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 | 仁王門 |
・仁王門は山寺立石寺の参道中腹に位置しています。現在の仁王門は嘉永元年(1848)に再建されたもので入母屋、銅板葺、三間一戸、総欅造、内部には情田和尚が発願、仏師平井源七郎作の仁王像が安置されています。
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 | 納径堂 |
・納径堂は百丈岩の頂上に位置し、山寺立石寺で書写した法華経を奉納する御堂です。現在の納径堂は安土桃山時代の慶長4年に建てられた建物で境内に残された最古の御堂建築として貴重な事から山形県指定文化財に指定。
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 | 開山堂 |
・開山堂は慈覚大師が入定した百丈岩の上部に位置し、山寺立石寺の聖地とされています。現在の建物は江戸時代末期に建てられたもので、入母屋、銅板葺、内部には大師の尊像が安置され僧侶が朝夕、食飯と香を供えています。
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 | 五大堂 |
・五大堂は山寺立石寺を護持する五大明王が祭られている御堂で、山内随一の眺望を有しています。現在の五大堂は江戸時代中期の正徳4年に再建されたもので木造平屋建、切妻、銅板葺、懸造(舞台造)で異彩を放っています。
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 | 三重小塔 |
・三重小塔は室町時代後期の永正16年(1519)に静運が発願し十穀静充が製作したもので高さ8尺2寸(248cm)、宝形、こけら葺、弁柄色、文化財指定されている三重塔としては日本最小、国指定重要文化財に指定されています。
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 | 行在所 |
・行在所は明治41年に当時の皇太子だった大正天皇が山寺立石寺に行啓(参詣)された際の御休息所として建てられた建物です。木造平屋建、入母屋、鉄板葺、桁行3間半、梁間3間、棟梁は加藤祐作、福棟梁は水野定治。
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 | 最上義光公御霊屋 |
・最上義光公御霊屋は江戸時代初期に建てられたもので、数少ない最上家の霊廟建築の遺構として貴重な建物です。内部には霊廟より早くに製作された厨子が設けられ、義光以下、家臣10人の位牌が安置されています。
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山寺立石寺 |
【山寺立石寺・概要】−山寺立石寺(山形県山形市)は平安時代の天台宗の高僧として知られた慈覚大師円仁が清和天皇の勅命により貞観2年(860)に創建されたと伝わる古寺です。真偽の程は不詳ですが、平安時代から東北地方の天台宗の中心的な寺院で、天台宗の布教活動に大きく寄与しています。又、境内にある百丈岩の中腹の入定窟には慈覚大師円仁が葬られたとの伝説が伝えられ、本山である比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)にも同様な伝説が伝えられています。実際発掘調査が行われると、入定窟からは複数の人骨や慈覚大師円仁の顔を模した木像が発見され、伝説の一端が明らかになっています。南北朝時代に羽州探題として当地に配された斯波兼頼が篤く帰依し、その後裔となる歴代最上家も庇護した事から、大寺院として発展を遂げています。慈覚大師円仁が開山以来、比叡山延暦寺から譲り受けた法燈を護り続けてきましたが、大永元年(1521)に最上家と天童家との対立による兵火により消失、その際、比叡山延暦寺から再び法燈を譲り受け、元亀2年(1571)、今度は織田信長による比叡山延暦寺の全山焼き討ちにより本山の法燈が消失すると山寺立石寺から譲り受けています。江戸時代初期に最上家が改易になると、幕府から庇護を受け寺領2千8百石を安堵され引き続き寺運が隆盛しています。又、松尾芭蕉による奥の細道の舞台でもあり「静かさや 岩に染み入る 蝉の声」の句が残されています。
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