飯豊町: 萩生城

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概要・歴史・観光・見所

萩生城(飯豊町)概要: 萩生城は山形県西置賜郡飯豊町萩生に位置する城郭です。南朝暦:天授6年、北朝暦:康暦2年(1380)、伊達宗遠(伊達家8代当主)が長井庄の地頭長井広房を滅ぼし当地域を掌握すると、嘉慶2年(1388)に伊達政宗(伊達家9代当主:儀山公)が家臣である国分政信を長井庄萩生郷に配しました。政信はそれを受け、萩生城を築城し、以後、国分氏の居城として11代城主を歴任しています。

国分氏はその後も応永9年(1402)に刈田郡平沢郷(宮城県蔵王町)を加増されるなど勢力を広げ国人領主並みに成長し下長井の被官衆を指揮する立場となりました。天正19年(1591)、豊臣秀吉による奥州仕置きの折、葛西大崎一揆の不手際により主家で米沢城の城主伊達政宗が岩出山城(宮城県大崎市)に移封になると当時当主国分行信も随行し萩生城も廃城になったと思われます。

萩生城は主郭の方形居館に、西側に出丸を拡張した複郭式平城で、主郭は南北145m、東西77m、周囲を幅10m程の水堀と幅10m、高さ3m程の土塁で囲い、南西隅の高所には物見櫓(推定)が、東側には虎口の大手門が設置され、出丸は南北147m、東西64m、主郭と同様に幅10〜13mの水堀と高さ3mの土塁で囲われ、応永年間(1394〜1428)に当時の当主国分光信が国分氏の祈願所として恩徳寺を移しています。

又、城下町には国分氏の菩提寺である吉祥寺や崇敬社だったと思われる諏訪神社などが鎮座し小城下町の名残を残しています。萩生城の跡地には現在でも土塁や水堀などの遺構が明瞭に残り、貴重な事から昭和62年(1987)に飯豊町指定史跡に指定されています。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-飯豊町教育委員会

萩生城:写真

萩生城
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