京塚愛宕神社(七所明神社)概要: 七所明神社の由来の歴史は古く、4世紀初頭仁徳天皇と対立した弟の大山守命の伝説が元になっています。出羽国に下向した大山守命でしたが現在の庄内町付近で天皇の家臣団についに捕縛され、遺言で「私の体を7つに切り刻み、最上鮭延庄で祀ってほしい」と嘆願しました。家臣団は遺言に従い体を分断しましたが誤って8つに分けてしまいます。そこで1つは投げ捨てられ(捨てられた場所は「名木沢(尾花沢市)」という地名になった。)残りの7つが首は新庄市宮内、胴は新庄市升形、左手は新庄市鳥越、右手は新庄市角沢、男根は新庄市本合海、左足は鮭川村京塚、右足は戸沢村松坂にそれぞれ社殿を建立し奉祀したといわれています。
元禄6年(1693)に現在地に遷座し、明治6年(1873)に荒沢の愛宕地蔵と合祀した事で愛宕神社に改称し郷社に列しました。現在の社殿は大正8年(1919)に再建されたもので拝殿は入母屋、鉄板葺、平入、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、本殿は一間社流造、鉄板葺、御神体は元禄6年(1693)に彫刻された木造神像で七所明神時代の本尊だったと推定されています。京塚愛宕神社は左足治癒の明神様が祀られ、社殿内部には左足が患った人達が健康祈願に訪れ、自らの靴や靴下、義足などが奉納されています。祭神:大山守命、迦具土命。
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